画/近藤浩一路
さて、邸(やしき)へは忍びこんだもののこれから先どうしてよいかわからない。そのうちに暗くなる、腹は減る、寒さは寒し、雨が降ってくるという始末で、もう一刻の猶予ができなくなった。しかたがないからとにかく明るくて暖かそうな方へ方へと歩いていく。今から考えるとその時はすでに家の内に入っておったのだ。
ここで吾輩は彼(か)の書生以外の人間を再び見るべき機会に遭遇したのである。第一に逢ったのが
※おさんである。これは前の書生より一層乱暴なほうで、吾輩を見るや否やいきなり首筋をつかんで表へ放りだした。
いやこれは駄目だと思ったから目をつぶって運を天に任せていた。しかしひもじいのと寒いのにはどうしても我慢ができん。吾輩は再びおさんの隙を見て台所へ這い上がった。すると間もなくまた投げ出された。吾輩は投げ出されては這い上がり、這い上がっては投げ出され、なんでも同じ事を四、五回繰り返したのを記憶している。その時におさんという者はつくづくいやになった。この間、おさんのサンマを盗んで、この返報をしてやってから、やっと胸のつかえがおりた。
吾輩が最後につまみ出されようとしたときに、この家の主人が「騒々しい。なんだ」と言いながら出てきた。下女は吾輩をぶら下げて主人の方へ向けて、「この宿なしの子猫がいくら出しても出してもお台所へ上がって来て困ります」と言う。主人は鼻の下の黒い毛をひねりながら吾輩の顔をしばらくながめておったが、やがて「そんならうちへ置いてやれ」と言ったまま奥へ入ってしまった。
主人はあまり口をきかぬ人と見えた。下女はくやしそうに吾輩を台所へ放りだした。かくして吾輩はついにこの家を自分の住み家ときめる事にしたのである。
※「おさん」下女の通称。
「さん」は、貴族の邸の三の間の略、下婢のいる所。転じて「めしたき女」、「下女」、「おさんどん」。
「めしたき女」の意の漢語に「爨婦」(さんぷ)があり、「お爨どん」の字も用いた。漱石は「御三」の字を用いている。