「吾輩は猫である」

  挿画でつづる漱石の猫 I AM A CAT illustrated
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《第三》 寂寞の感


画/寺田寅彦

 三毛子は死ぬ。黒は相手にならず、いささか寂寞(せきばく)の感はあるが、幸い人間に知己ができたのでさほど退屈とも思わぬ。せんだっては主人のもとへ、吾輩の写真を送ってくれと手紙で依頼した男がある。この間は、岡山の名産吉備団子(きびだんご)をわざわざ吾輩の名宛てで届けてくれた人がある。だんだん人間から同情を寄せらるるに従って、己が猫である事はようやく忘却してくる。猫よりはいつの間にか人間の方へ接近してきたような心持ちになって、同族を糾合(きゅうごう/ある目的のもとに人々を寄せ集め、まとめること)して、二本足の先生と雌雄を決しようなどという了見は、昨今のところ毛頭ない。それのみか、折々は吾輩もまた人間世界の一人だと思う折さえあるくらいに進化したのはたのもしい。あえて同族を軽蔑する次第ではない。ただ性情の近きところに向かって一身の安きを置くは勢いのしからしむるところで、これを変心とか、軽薄とか、裏切りとか評せられてはちと迷惑する。かような言語を弄(ろう)して人を罵詈(ばり)するものに限って融通の利かぬ貧乏性の男が多いようだ。
 こう猫の習癖を脱化してみると、三毛子や黒の事ばかり荷厄介にしている訳にはいかん。やはり人間同等の気位で彼らの思想、言行を評隲(ひょうしつ/批評)したくなる。これも無理はあるまい。ただそのくらいな見識を有している吾輩を、やはり一般猫児(びょうじ)の毛の生えたものくらいに思って、主人が吾輩に一言の挨拶もなく、吉備団子をわが物顔に食い尽くしたのは残念の次第である。写真もまだ撮って送らぬようすだ。これも不平といえば不平だが、主人は主人、吾輩は吾輩で、相互の見解が自然異なるのはいたしかたもあるまい。吾輩はどこまでも人間になりすましているのだから、交際をせぬ猫の動作は、どうしてもちょいと筆にのぼりにくい。迷亭、寒月諸先生の評判だけでごめんこうむる事にいたそう。



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《第三》 筆太に


映画(1975) より

 今日は上天気の日曜なので、主人はのそのそ書斎から出て来て、吾輩のそばへ筆硯(ふですずり)と原稿用紙を並べて腹ばいになって、しきりになにかうなっている。おおかた草稿を書きおろす序開き(じょびらき)として妙な声を発するのだろうと注目していると、ややしばらくして筆太に「香一〓」【〓は「火へん」に「主」】(こういっしゅ/香(こう)のひとくゆり)と書いた。はてな、詩になるか、俳句になるか、香一〓【〓は「火へん」に「主」】とは、主人にしては少し洒落過ぎているがと思う間もなく、彼は香一〓【〓は「火へん」に「主」】を書きっ放しにして、新たに行を改めて「さっきから天然居士(てんねんこじ)の事を書こうと考えている」と筆を走らせた。筆はそれだけで、はたととまったぎり動かない。主人は筆を持って首をひねったが別段名案もないものとみえて筆の穂をなめだした。くちびるが真っ黒になったと見ていると、今度はその下へちょいと丸をかいた。丸の中へ点を二つうって目をつける。真ん中へ小鼻の開いた鼻をかいて、真一文字に口を横へ引っぱった、これでは文章でも俳句でもない。主人も自分で愛想が尽きたとみえて、そこそこに顔を塗り消してしまった。


天然居士
第一高等学校以来の漱石の親友・米山保三郎が円覚寺管長・今北洪川からもらった居士(こじ)号。
東京帝国大学大学院で「空間論」という題で哲学を研究していた彼は、明治30年(1897)チフスで死んだ。



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《第三》 天然居士


画/下高原千歳

 主人はまた行を改める。彼の考えによると、行さえ改めれば詩か賛か語か録かなんかになるだろうと、ただあてもなく考えているらしい。やがて「天然居士は空間を研究し、論語を読み、焼き芋を食い、鼻汁(はな)を垂らす人である」と言文一致体で一気呵成(いっきかせい)に書き流した。なんとなくごたごたした文章である。
 それから主人はこれを遠慮なく朗読して、いつになく「ハハハハ。おもしろい」と笑ったが「鼻汁(はな)を垂らすのは、ちと酷だから消そう」とその句だけへ棒を引く。一本ですむところを二本引き三本引き、きれいな平行線を書く。線がほかの行まではみ出しても構わず引いている。線が八本並んでも後の句ができないとみえて、今度は筆を捨ててヒゲをひねってみる。文章をヒゲからひねりだしてご覧にいれますという剣幕で、猛烈にひねってはねじ上げ、ねじ下ろしているところへ、茶の間から細君が出て来てぴたりと主人の鼻の先へ座る。


「詩か賛か語か録」
漢詩文のいろいろな様式をあげ、四三五六に語呂を合わせたしゃれ。落語『一目上り』に使われている。



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《第三》 ジャムを幾罐



「あなた、ちょっと」と呼ぶ。
「なんだ」と主人は水中で銅鑼(どら)を叩くような声を出す。返事が気にいらないとみえて、細君はまた「あなた、ちょっと」と出直す。
「なんだよ」と今度は鼻の穴へ親指と人さし指を入れて鼻毛をぐっと抜く。
「今月はちっと足りませんが……」
「足りんはずはない、医者へも薬礼はすましたし、本屋へも先月払ったじゃないか。今月は余らなければならん」と、すまして、抜き取った鼻毛を天下の奇観のごとくながめている。
「それでもあなたがごはんを召し上がらんでパンをお食べになったり、ジャムをおなめになるものですから」
「元来ジャムは幾缶なめたのかい」
「今月は八ついりましたよ」
「八つ? そんなになめた覚えはない」
「あなたばかりじゃありません、子供もなめます」
「いくらなめたって五、六円くらいなものだ」と、主人は平気な顔で鼻毛を一本一本丁寧に原稿紙の上へ植えつける。肉がついているのでピンと針を立てたごとくに立つ。主人は思わぬ発見をして感じいった体(てい)で、ふっと吹いてみる。粘着力が強いので決して飛ばない。「いやに頑固だな」と主人は一生懸命に吹く。



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《第三》 鼻毛の白髪


画/近藤浩一路

「ジャムばかりじゃないんです、ほかに買わなけりゃならない物もあります」と細君はおおいに不平な気色(けしき)を両頬にみなぎらす。
「あるかもしれないさ」と主人はまた指を突っこんで、ぐいと鼻毛を抜く。赤いのや、黒いのや、種々の色が交じる中に一本真っ白なのがある。おおいに驚いた様子で穴の開くほどながめていた主人は、指のまたへ挟んだままその鼻毛を細君の顔の前へ出す。
「あら、いやだ」と細君は顔をしかめて、主人の手を突き戻す。
「ちょっと見ろ、鼻毛の白髪だ」と主人はおおいに感動した様子である。さすがの細君も笑いながら茶の間へ入る。経済問題は断念したらしい。主人はまた天然居士に取りかかる。



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《第三》 再び天然居士


画/下高原千歳

 鼻毛で細君を追い払った主人は、まずこれで安心と言わぬばかりに鼻毛を抜いては原稿を書こうと焦る体(てい)であるが、なかなか筆は動かない。
焼芋を食うも蛇足だ、割愛(かつあい)しよう」と、ついにこの句も抹殺する。
香一〓【〓は「火へん」に「主」】も、あまり唐突だからやめろ」と惜し気もなく筆誅(ひっちゅう)する。
 余す所は「天然居士は空間を研究し論語を読む人である」という一句になってしまった。主人はこれではなんだか簡単過ぎるようだなと考えていたが、「ええい、面倒臭い。文章はお廃にして銘だけにしろ」と、筆を十文字にふるって原稿紙の上へ下手な文人画の蘭(ラン)を勢いよく描く。せっかくの苦心も一字残らず落第となった。
 それから裏を返して「空間に生まれ、空間を究(きわ)め、空間に死す。空たり間たり天然居士。噫(ああ)」と意味不明な語を連ねているところへ例のごとく迷亭が入ってくる。



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《第三》 曾呂崎の事


画/北沢楽天

 迷亭は人の家も自分の家も同じものと心得ているのか、案内も乞わずずかずか上がってくるのみならず、時には勝手口から飄然(ひょうぜん)と舞いこむ事もある。心配、遠慮、気兼ね、苦労を、生まれる時どこかへ振り落とした男である。
「また巨人引力かね」と立ったまま主人に聞く。
「そう、いつでも巨人引力ばかり書いてはおらんさ。天然居士の墓銘を撰(せん)して(詩歌・文章を選び抜いて書物にまとめること)いるところなんだ」と大袈裟な事を言う。
天然居士というなあ、やはり偶然童子のような戒名かね」と迷亭はあいかわらずでたらめを言う。
偶然童子というのもあるのかい」
「なに、ありゃしないが、まずその見当だろうと思っていらあね」
偶然童子というのは僕の知ったものじゃないようだが、天然居士というのは君の知ってる男だぜ」
「いったいだれが天然居士なんて名をつけてすましているんだい」
「例の曾呂崎(そろさき)の事だ。卒業して大学院へ入って空間論という題目で研究していたが、あまり勉強し過ぎて腹膜炎で死んでしまった。曾呂崎はあれでも僕の親友なんだからな」
「親友でもいいさ、決して悪いと言いやしない。しかしその曾呂崎を天然居士に変化させたのはいったい誰の所作だい」
「僕さ、僕がつけてやったんだ。元来、坊主のつける戒名ほど俗なものは無いからな」と天然居士はよほど雅(が)な名のように自慢する。
 迷亭は笑いながら「まあ、その墓碑銘(ぼひめい)という奴を見せたまえ」と原稿を取り上げて「なんだ……空間に生まれ、空間を究め、空間に死す。空たり間たり天然居士 噫(ああ)」と大きな声で読みあげる。「なるほど、こりゃあ、いい。天然居士相当のところだ」
 主人は嬉しそうに「いいだろう」と言う。
「この墓銘(ぼめい)をタクアン石へ彫りつけて本堂の裏手へ力石(ちからいし)のように放り出しておくんだね。雅(が)でいいや、天然居士も浮かばれる訳だ」
「僕もそうしようと思っているのさ」と主人はしごく真面目に答えたが「僕ぁちょっと失敬するよ、じき帰るから猫でもからかっていてくれたまえ」と迷亭の返事も待たず風然(ふうぜん)と出て行く。



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《第三》 主人の中座


画/司 修

 計らずも迷亭先生の接待係を命ぜられて無愛想な顔もしていられないから、ニャーニャーと愛嬌をふりまいて膝の上へ這い上がってみた。すると迷亭は「イヨー、だいぶ肥ったな、どれ」と無作法にも吾輩のえりがみをつかんで宙へつるす。「後足をこうぶら下げては、ネズミは取れそうもない、……どうです奥さん、この猫はネズミをとりますかね」と吾輩ばかりでは不足だとみえて、隣の部屋の細君に話しかける。
「ネズミどころじゃございません。お雑煮を食べて踊りをおどるんですもの」と細君はとんだところで旧悪を暴く。吾輩は宙乗りをしながらも少々きまりが悪かった。迷亭はまだ吾輩をおろしてくれない。
「なるほど。踊りでもおどりそうな顔だ。奥さん、この猫は油断のならない相好(そうごう)ですぜ。昔の草双紙(くさぞうし)にある猫又(ねこまた)に似ていますよ」と勝手な事を言いながら、しきりに細君に話しかける。細君は迷惑そうに針仕事の手をやめて座敷へ出てくる。
「どうもお退屈様。もう帰りましょう」と、茶をつぎかえて迷亭の前へ出す。


「草双紙」
江戸中期以降に流行した大衆的な絵入り小説本の総称。各ページに挿し絵があり、多くはひらがなで書かれた。ふつう、大半紙半截(はんせつ)二つ折り、1巻1冊5丁(10ページ)で、数冊を1部とする。表紙の色によって赤本・黒本・青本・黄表紙と区別し、長編で合冊したものを合巻(ごうかん)と称した。狭義には合巻だけをいうこともある。絵双紙。



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《第三》 細君と迷亭


画/吉崎正巳

「どこへ行ったんですかね」
「どこへ参るにも断わって行った事の無い男ですからわかりかねますが、おおかたお医者へでも行ったんでしょう」
「甘木さんですか、甘木さんもあんな病人に捕まっちゃ災難ですな」
「へえ」と細君は挨拶のしようもないとみえて簡単な答えをする。
 迷亭はいっこう頓着しない。「近頃はどうです、少しは胃の加減がいいんですか」
「いいか悪いかとんとわかりません、いくら甘木さんにかかったって、あんなにジャムばかりなめては胃病の治る訳がないと思います」と細君は先刻の不平を暗に迷亭にもらす。
「そんなにジャムをなめるんですか。まるで子供のようですね」
「ジャムばかりじゃないんで。この頃は胃病の薬だとかいって大根おろしをむやみになめますので……」
「驚いたな」と迷亭は感嘆する。
「なんでも大根おろしの中にはジャスターゼ(消化酵素)があるとかいう話を新聞で読んでからです」
「なるほど。それでジャムの損害を償おうという趣向ですな。なかなか考えていらあ。ハハハハ」と迷亭は細君の訴えを聞いておおいに愉快な気色(けしき)である。



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《第三》 飛び下りてみろ


映画(1975) より

「この間などは赤ん坊にまでなめさせまして……」
「ジャムをですか」
「いいえ。大根おろしを……あなた。『坊や、お父様がうまいものをやるからおいで』って、――たまに子供を可愛がってくれるかと思うとそんな馬鹿な事ばかりするんです。二、三日前には中の娘を抱いて箪笥(たんす)の上へあげましてね……」
「どういう趣向がありました」と迷亭は何を聞いても趣向ずくめに解釈する。
「なに、趣向もなにもありゃしません、ただその上から飛び下りてみろと言うんですわ、三つや四つの女の子ですもの、そんなおてんばな事ができるはずがないです」
「なるほど、こりゃ趣向が無さ過ぎましたね。しかしあれで腹の中は毒のない善人ですよ」
「あの上、腹の中に毒があっちゃしんぼうはできませんわ」と細君はおおいに気炎を揚げる。



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