「吾輩は猫である」

  挿画でつづる漱石の猫 I AM A CAT illustrated
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《第五》 二十四時間の出来事を 


映画(1975) より

 二十四時間の出来事をもれなく書いて、もれなく読むには少なくも二十四時間かかるだろう。いくら写生文を鼓吹(こすい)する吾輩でも、これはとうてい猫の企て及ぶべからざる芸当と自白せざるをえない。従っていかに吾輩の主人が、二六時中(一日中。昔、1日が12刻であったところから。四六時中に同じ)精細なる描写に価する奇言奇行を弄(ろう)するにも関わらず、逐一これを読者に報知するの能力と根気のないのははなはだ遺憾(いかん)である。遺憾ではあるがやむをえない。休養は猫といえども必要である。
 鈴木君と迷亭君の帰った後は木枯らしのはたと吹きやんで、しんしんと降る雪の夜のごとく静かになった。
 主人は例のごとく書斎へ引きこもる。
 子供は六畳の間へ枕をならべて寝る。
 一間半のふすまを隔てて南向きの部屋には、細君が数え年三つになるめん子さんと添え乳(そえぢ)して横になる。
 花曇りに暮れを急いだ日は疾(と)く落ちて、表を通る駒下駄の音さえ手に取るように茶の間へ響く。隣町の下宿で明笛(みんてき)を吹くのが絶えたり続いたりして、眠い耳底(じてい)に折々鈍い刺激を与える。外はおおかた朧(おぼろ)であろう。晩餐に半ぺんのダシで鮑貝(あわびがい/「吾輩」の食器)をカラにした腹ではどうしても休養が必要である。



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《第五》 猫の恋



 ほのかに承われば世間には猫の恋(春の季語)とか称する俳諧(はいかい)趣味の現象があって、春さきは町内の同族どもの夢、安からぬまで浮かれ歩く夜もあるとかいうが、吾輩はまだかかる心的変化に遭遇した事はない。そもそも恋は宇宙的の活力である。上(かみ)は在天の神ジュピターより、下(しも)は土中に鳴くミミズ、おけらに至るまで、この道にかけて浮き身をやつすのが万物の習いであるから、吾輩どもが朧(おぼろ)うれしと、物騒な風流気を出すのも無理のない話である。回顧すればかくいう吾輩も三毛子に思い焦がれた事もある。三角主義の張本たる金田君の令嬢 阿倍川の富子さえ、寒月君に恋慕したという噂である。それだから千金の春宵(しゅんしょう)を心も空に満天下の雌猫雄猫(めねこおねこ)が狂いまわるのを煩悩の迷いのと軽蔑する念は毛頭ないのであるが、いかんせん誘われてもそんな心が出ないからしかたがない。



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《第五》 休養を欲する


画/吉崎正巳

 吾輩、目下の状態はただ休養を欲するのみである。こう眠くては恋もできぬ。のそのそと子供の布団の裾へまわって心地よく眠る。……



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《第五》 眠る苦沙弥一家


画/近藤浩一路

 ふと目を開いてみると、主人はいつの間にか書斎から寝室へ来て、細君の隣に延べてある布団の中にいつの間にかもぐりこんでいる。主人の癖として寝る時は必ず横文字の小本(こほん)を書斎から携えて来る。しかし横になってこの本を二ページと続けて読んだ事はない。ある時は持って来て枕元へ置いたなり、まるで手を触れぬ事さえある。一行も読まぬくらいならわざわざさげてくる必要もなさそうなものだが、そこが主人の主人たるところで、いくら細君が笑ってもよせと言っても決して承知しない。毎夜読まない本をご苦労千万にも寝室まで運んでくる。ある時は欲張って三、四冊も抱えてくる。せんだってじゅうは毎晩ウェブスターの大字典さえ抱えてきたくらいである。思うにこれは主人の病気で、贅沢な人が竜文堂(りゅうぶんどう/鉄瓶の作者の銘)に鳴る松風の音(鉄瓶や釜の中で湯が煮える音)を聞かないと寝つかれないごとく、主人も書物を枕元に置かないと眠れないのであろう。してみると主人にとっては書物は読むものではない、眠りを誘う器械である。活版の睡眠剤である。
 今夜もなにかあるだろうとのぞいてみると、赤い薄い本が主人の口ヒゲの先につかえるくらいな地位に、半分開かれて転がっている。主人の左の手の親指が本の間に挟まったままであるところから推(お)すと、奇特にも今夜は五、六行読んだものらしい。赤い本と並んで例のごとくニッケルの袂時計(たもとどけい)が春に似合わぬ寒き色を放っている。
 細君は乳飲み児を一尺ばかり先へ放り出して、口を開いていびきをかいて枕をはずしている。およそ人間においてなにが見苦しいと言って、口を開けて寝るほどの不体裁はあるまいと思う。猫などは生涯こんな恥をかいた事がない。元来、口は音を出すため、鼻は空気を吐呑(とどん)するための道具である。もっとも北の方へ行くと人間が無精になって、なるべく口をあくまいと倹約をする結果、鼻で言語を使うようなズーズーもあるが、鼻を閉塞して口ばかりで呼吸の用を弁じているのは、ズーズーよりもみっともないと思う。第一、天井からネズミのフンでも落ちた時、危険である。
 子供の方はと見ると、これも親に劣らぬていたらくで寝そべっている。姉のとん子は、姉の権利はこんなものだと言わぬばかりにうんと右の手を延ばして妹の耳の上へのせている。妹のすん子は、その復讐に姉の腹の上に片足をあげてふんぞり返っている。双方とも寝た時の姿勢より九十度はたしかに回転している。しかもこの不自然なる姿勢を維持しつつ、両人とも不平も言わずおとなしく熟睡している。


「松風」
茶道から。抹茶を立てるのに適当な温度は、沸騰の頂点ではなく(あまりに煮え立ったお湯では、茶の味や香りを損ねるため)、それを過ぎて少し下り坂の煮え加減の時、あるいは沸騰の一歩手前の時で、この時の釜の煮え音を「松風」という。
「松風(しょうふう)」は松籟(しょうらい)とも言い、釜がシュンシュンと鳴る音を表現したもの。風情のある音とされる



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《第五》 眠る苦沙弥一家2


画/近藤浩一路

 さすがに春の灯は格別である。天真爛漫ながら無風流極まるこの光景のうちに良夜を惜しめとばかり、ゆかしげに輝やいて見える。もう何時だろうと部屋の中を見まわすと、四隣はしんとしてただ聞こえるものは柱時計と細君のいびきと遠方で下女の歯軋りをする音のみである。この下女は人から歯軋りをすると言われるといつでもこれを否定する女である。「私は生まれてから今日に至るまで歯軋りをした覚えはございません」と強情を張って決して「直しましょう」とも「お気の毒でございます」とも言わず、ただ「そんな覚えはございません」と主張する。なるほど、寝ていてする芸だから覚えはないに違いない。しかし事実は覚えがなくても存在する事があるから困る。世の中には悪い事をしておりながら、自分はどこまでも善人だと考えているものがある。これは自分が罪がないと自信しているのだから無邪気で結構ではあるが、人の困る事実はいかに無邪気でも滅却する訳にはいかぬ。こういう紳士淑女はこの下女の系統に属するのだと思う。
 ――夜はだいぶ更けたようだ。



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《第五》 夜更けの物音


映画(1936) より

 台所の雨戸にトントンと二へんばかり軽くあたったものがある。はてな、今頃人の来るはずがない。おおかた例のネズミだろう、ネズミならとらん事にきめているから勝手にあばれるがよろしい。
 ――またトントンとあたる。どうもネズミらしくない。ネズミとしても大変用心深いネズミである。主人のうちのネズミは、主人の出る学校の生徒のごとく日中でも夜中でも乱暴狼藉の練習に余念なく、憫然(びんぜん/あわれむべきさま)なる主人の夢を驚破(きょうは)するのを天職のごとく心得ている連中だから、かくのごとく遠慮する訳がない。今のはたしかにネズミではない。せんだってなどは主人の寝室にまで闖入(ちんにゅう)して、高からぬ主人の鼻の頭を咬んで凱歌(がいか)を奏して引き上げたくらいのネズミにしてはあまり臆病すぎる。決してネズミではない。
 今度はギーと雨戸を下から上へ持ち上げる音がする。同時に腰障子をできるだけゆるやかに、溝に添うてすべらせる。
 いよいよネズミではない。人間だ。



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《第五》 泥棒陰士


映画(1975) より

 この深夜に人間が案内も乞わず戸締まりをはずして御光来になるとすれば、迷亭先生や鈴木君ではないにきまっている。御高名だけはかねて承わっている泥棒陰士(どろぼういんし)ではないかしらん。いよいよ陰士とすれば早く尊顔を拝したいものだ。陰士は今や勝手の上におおいなる泥足を上げて二足ばかり進んだ模様である。三足目と思う頃、揚げ板につまずいてか、ガタリと夜に響くような音を立てた。吾輩の背中の毛が靴刷毛(くつばけ)で逆にこすられたような心持ちがする。しばらくは足音もしない。細君を見るとまだ口をあいて太平の空気を夢中に吐呑(とどん)している。主人は赤い本に親指を挟まれた夢でも見ているのだろう。やがて台所でマッチをする音が聞こえる。陰士でも吾輩ほど夜陰に目は利かぬと見える。勝手が悪くてさだめし不都合だろう。



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《第五》 泥棒陰士2


映画(1975) より

 この時、吾輩はうずくまりながら考えた。陰士は勝手から茶の間の方面へ向けて出現するのであろうか、または左へ折れ玄関を通過して書斎へと抜けるであろうか。――足音はふすまの音とともに縁側へ出た。陰士はいよいよ書斎へ入った。それぎり音も沙汰もない。



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《第五》 泥棒陰士3


画/柳井愛子

 吾輩はこの間に早く主人夫婦を起こしてやりたいものだとようやく気がついたが、さてどうしたら起きるやらいっこう要領を得ん考えのみが頭の中に水車の勢いで回転するのみで、なんらの分別も出ない。
 布団の裾をくわえて振ってみたらと思って、二、三度やってみたが少しも効用がない。
 冷たい鼻を頬にすりつけたらと思って主人の顔の先へ持っていったら、主人は眠ったまま手をうんと延ばして、吾輩の鼻づらをいやと言うほど突き飛ばした。鼻は猫にとっても急所である。痛む事おびただしい。
 今度はしかたがないからニャーニャーと二へんばかり鳴いて起こそうとしたが、どういうものかこの時ばかりはのどに物がつかえて思うような声が出ない。やっとの思いで渋りながら低い奴を少々出すと驚いた。肝心の主人は覚める気色(けしき)もないのに突然陰士の足音がし出した。ミチリミチリと縁側を伝って近づいて来る。いよいよ来たな、こうなってはもう駄目だと諦めて、ふすまと柳行李(やなぎごうり)の間にしばしの間、身を忍ばせて動静をうかがう。



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《第五》 泥棒陰士4


画/司 修

 陰士の足音は寝室の障子の前へ来てぴたりとやむ。吾輩は息を凝らして、この次は何をするだろうと一生懸命になる。後で考えたが、ネズミをとる時はこんな気分になれば訳はないのだ。魂が両方の目から飛び出しそうな勢いである。陰士のおかげで二度とない悟りを開いたのは実にありがたい。たちまち障子の桟(さん)の三つ目が雨に濡れたように真ん中だけ色が変わる。それを透かして薄紅(うすくれない)なものがだんだん濃く写ったと思うと、紙はいつか破れて赤い舌がぺろりと見えた。舌はしばしの間に暗い中に消える。入れ代わってなんだか恐しく光るものが一つ、破れた穴の向こう側にあらわれる。疑いもなく陰士の目である。妙な事にはその目が、部屋の中にある何物をも見ないで、ただ柳行李の後ろに隠れていた吾輩のみを見つめているように感ぜられた。一分にも足らぬ間ではあったが、こうにらまれては寿命が縮まると思ったくらいである。もう我慢できんから行李の影から飛び出そうと決心した時、寝室の障子がスーと開いて待ち兼ねた陰士がついに眼前にあらわれた。



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