「吾輩は猫である」

  挿画でつづる漱石の猫 I AM A CAT illustrated
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《第七》 吾輩と運動


画/北川健次

 吾輩は近頃運動を始めた。猫のくせに運動なんてきいた風だと一概に冷罵(れいば)し去る手合いにちょっと申し聞けるが、そういう人間だってつい近年までは運動の何ものたるを解せずに、食って寝るのを天職のように心得ていたではないか。無事是貴人(ぶじこれきにん/静かで落ち着いた境地に安らいでいる人こそ高貴な人である)とか称えて、懐手(ふところで)をして座布団から腐れかかった尻を離さざるをもって、『旦那の名誉』と、やにさがって暮らしたのは覚えているはずだ。
 運動をしろの、牛乳を飲めの、冷水を浴びろの、海の中へ飛びこめの、夏になったら山の中へこもって当分霞(かすみ)を食らえのと、くだらぬ注文を連発するようになったのは、西洋から神国へ伝染した最近の病気で、やはりペスト、肺病、神経衰弱の一族と心得ていいくらいだ。


「無事是貴人」
禅語。人為の入りこみようのない、静かで落ち着いた境地に安らいでいる人こそ高貴な人である。
【臨済録】『示衆』三に「無事是れ貴人、但だ造作すること莫かれ、祇だ是れ平常なれ」とある。



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《第七》 吾輩と運動2


映画(1975) より

 もっとも吾輩は去年生まれたばかりで当年とって一歳だから、人間がこんな病気にかかり出した当時の有り様は記憶に存しておらん。のみならず、そのみぎりは浮き世の風中にふわついておらなかったに相違ないが、猫の一年は人間の十年にかけ合うと言ってもよろしい。我らの寿命は人間より二倍も三倍も短いにかかわらず、その短日月の間に猫一匹の発達は十分つかまつるところをもって推論すると、人間の年月と猫の星霜(せいそう/歳月)を同じ割合に打算するのははなはだしき誤謬(ごびゅう/間違い)である。第一、一歳何ケ月に足らぬ吾輩がこのくらいの見識を有しているのでもわかるだろう。主人の第三女などは数え年で三つだそうだが、知識の発達からいうといやはや鈍いものだ。泣く事と、寝小便をする事と、おっぱいを飲む事よりほかになんにも知らない。世を憂い、時を憤(いきどお)る吾輩などに比べると、からたわいのない者だ。


「星霜」
星は1年に天を1周し、霜は毎年降るところから、「歳月」の意。



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《第七》 吾輩と運動3



 それだから吾輩が、運動、海水浴、転地療養の歴史を方寸のうちに畳みこんでいたってちっとも驚くに足りない。これしきの事をもし驚く者があったなら、それは人間という、足の二本足りないノロマにきまっている。人間は昔からノロマである。であるから近頃に至ってようよう運動の功能を吹聴(ふいちょう)したり、海水浴の利益を喋々(ちょうちょう/しきりにしゃべること。「喋」は「しゃべ(る)」とも訓読できる語)して大発明のように考えるのである。吾輩などは生まれない前からそのくらいな事はちゃんと心得ている。



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《第七》 吾輩と運動4



 第一、海水がなぜ薬になるかと言えば、ちょっと海岸へ行けばすぐわかる事じゃないか。あんな広い所に魚が何匹おるかわからないが、あの魚が一匹も病気をして医者にかかった試しがない。みんな健全に泳いでいる。病気をすれば、からだが利かなくなる。死ねば必ず浮く。それだから魚の往生を『上がる』と言って、鳥の薨去(こうきょ/>皇族または三位(さんみ)以上の貴人の死去すること)を『落ちる』と唱え、人間の寂滅(じゃくめつ/死ぬこと)を『ごねる』(「死ぬ」の俗語)と号している。
 洋行をしてインド洋を横断した人に『君、魚の死ぬところを見た事がありますか』と聞いてみるがいい、誰でも『いいえ』と答えるにきまっている。それはそう答える訳だ。いくら往復したって一匹も波の上に今息を引き取った――息ではいかん、魚の事だから潮(しお)を引き取ったと言わなければならん――潮を引き取って浮いているのを見た者はないからだ。あの渺々(びょうびょう/果てしなく広いさま)たる、あの漫々たる大海を、日となく夜となく続けざまに石炭を焚いて探して歩いても、古往今来(こおうこんらい)一匹も魚が『上がっ』ておらんところをもって推論すれば、魚はよほど丈夫なものに違いないという断案はすぐに下す事ができる。



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《第七》 吾輩と運動5



 それならなぜ魚がそんなに丈夫なのかといえば、これまた人間を待ってしかるのちに知らざるなりで、訳はない。すぐわかる。まったく潮水を呑んで始終海水浴をやっているからだ。海水浴の功能はそのように魚に取って顕著である。魚にとって顕著である以上は人間にとっても顕著でなくてはならん。1750年にドクトル・リチャード・ラッセル(イギリスの医者)『ブライトンの海水に飛びこめば四百四病即席全快』と大げさな広告を出したのは、遅い遅いと笑ってもよろしい。猫といえども相当の時機が到着すれば、みんな鎌倉あたりへ出かけるつもりでいる。ただし今はいけない。物には時機がある。御維新前の日本人が海水浴の功能を味わう事ができずに死んだごとく、今日(こんにち)の猫はいまだ裸体で海の中へ飛びこむべき機会に遭遇しておらん。急(せ)いては事を仕損んずる。今日のように築地(つきじ/海などを埋め立てた土地。東京都中央区にある町名)へ打っちゃられに行った猫が無事に帰宅せん間はむやみに飛びこむ訳にはいかん。進化の法則で我ら猫輩の機能が狂瀾怒濤(きょうらんどとう/物事の秩序がひどく乱れた状態)に対して適当の抵抗力を生ずるに至るまでは――換言すれば猫が『死んだ』と言う代わりに猫が『上がった』という語が一般に使用せらるるまでは――容易に海水浴はできん。


『ブライトンの海水に飛びこめば四百四病即席全快』
ブライトンは、ロンドンから南に向かって海に突き当たったあたり。保養地・海水浴場として有名な場所。リチャード・ラッセルは「water cure」と称される治療法を推奨していたことで有名。



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《第七》 吾輩と運動6


彫刻/松村外次郎

 海水浴は追って実行する事にして、運動だけは取りあえずやる事に取りきめた。どうも二十世紀の今日(こんにち)、運動せんのはいかにも貧民のようで人聞きが悪い。運動をせんと、運動せんのではない、運動ができんのである、運動をする時間がないのである、余裕がないのだ、と鑑定される。昔は運動したものが折助(おりすけ/近世、武家で使われた下男の異称)と笑われたごとく、今では運動をせぬ者が下等と見なされている。彼らの評価は時と場合に応じ吾輩の目玉のごとく変化する。吾輩の目玉はただ小さくなったり大きくなったりするばかりだが、人間の品さだめとくると真っ逆さまにひっくり返る。
 ひっくり返ってもさしつかえはない。物には両面がある。両端がある。両端を叩いて黒白の変化を同一物の上に起こすところが人間の融通のきくところである。方寸(ほうすん/胸の中。心)を逆さまにして見ると寸方となるところに愛嬌がある。天の橋立を股倉(またぐら)からのぞいてみるとまた格別な趣が出る。セクスピヤ(シェークスピア)も千古万古セクスピヤではつまらない。たまには股倉からハムレットを見て、『君、こりゃ駄目だよ』くらいに言う者がないと、文界も進歩しないだろう。


「方寸」
【蜀志】『諸葛亮伝』から。
昔、心臓の大きさは1寸四方(約3センチ四方)と考えられていたことから、「胸のうち、心」の意に。



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《第七》 吾輩と運動7


画/竹久夢二

 だから運動を悪く言った連中が急に運動がしたくなって、女までがラケットを持って往来を歩きまわったっていっこう不思議はない。ただ猫が運動するのをきいた風だなどと笑いさえしなければよい。




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《第七》 吾輩と運動8


左の男性モデル(笑)は正岡子規。

 さて、吾輩の運動はいかなる種類の運動かと不審を抱く者があるかもしれんから一応説明しようと思う。ご承知のごとく、不幸にして器械を持つ事ができん。だからボールもバットも取り扱い方に困窮する。次には金がないから買う訳にいかない。この二つの原因からして吾輩の選んだ運動は、『一文いらず器械なし』と名づくべき種類に属するものと思う。そんなら、のそのそ歩くか、あるいはマグロの切り身をくわえて駆け出す事と考えるかもしれんが、ただ四本の足を力学的に運動させて、地球の引力にしたがって大地を横行するのは、あまり簡単で興味がない。いくら運動と名がついても、主人の時々実行するような読んで字のごとき運動は、どうも運動の神聖を汚すものだろうと思う。もちろんただの運動でも、ある刺激のもとにはやらんとは限らん。『鰹節競争』(かつぶしきょうそう)、『鮭(シャケ)探し』などは結構だが、これは肝心の対象物があっての上の事で、この刺激を取り去ると心ひかれるものがなくて興ざめして、没趣味なものになってしまう。
 懸賞的興奮剤がないとすればなにか芸のある運動がしてみたい。吾輩はいろいろ考えた。



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《第七》 吾輩と運動9



 台所の廂(ひさし)から屋根に飛び上がる方。
 屋根のてっぺんにある梅花形の瓦の上に四本足で立つ術。
 物干し竿を渡る事。――これはとうてい成功しない。竹がつるつるすべって爪が立たない。
 後ろから不意に子供に飛びつく事。――これはすこぶる興味のある運動のひとつだが、めったにやるとひどい目に逢うから、たかだか月に三度くらいしか試みない。
 紙袋を頭へかぶせらるる事。――これは苦しいばかりで、はなはだ興味のとぼしい方法である。ことに人間の相手がおらんと成功しないから駄目。



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《第七》 吾輩と運動10


映画(1975) より

 次には、書物の表紙を爪で引っかく事。――これは主人に見つかると必ずどやされる危険があるのみならず、わりあいに手先の器用ばかりで総身の筋肉が働かない。

 これらは吾輩のいわゆる旧式運動なるものである。



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