「吾輩は猫である」

  挿画でつづる漱石の猫 I AM A CAT illustrated
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《第十》 もう七時ですよ


画/近藤浩一路

「あなた、もう七時ですよ」と、ふすま越しに細君が声を掛けた。主人は目が覚めているのだか寝ているのだか、向こうむきになったぎり返事もしない。返事をしないのはこの男の癖である。ぜひなんとか口を切らなければならない時は『うん』と言う。この『うん』も容易な事では出てこない。人間も返事がうるさくなるくらい無精になるとどことなく趣があるが、こんな人に限って女に好かれた試しがない。現在連れ添う細君ですらあまり珍重しておらんようだから、その他は推して知るべしと言ってもたいした間違いはなかろう。親兄弟に見離され、赤の他人の傾城(けいせい)に、かわいがらりょうはずがない、とある以上は、細君にさえモテない主人が、世間一般の淑女に気に入られるはずがない。なにも異性間に不人望な主人をこの際ことさらに暴露する必要もないのだが、本人において存外な考え違いをして、まったく年まわりのせいで細君に好かれないのだなどと理屈をつけていると迷いの種であるから、自覚の一助にもなろうかと親切心からちょっと申し添えるまでである。
 言いつけられた時刻に「時刻がきた」と注意しても、先方がその注意を無にする以上は、向こうをむいて『うん』しか発せざる以上は、その非は夫にあって妻にあらずと論定したる細君は、遅くなっても知りませんよという姿勢でホウキとハタキをかついで書斎の方へ行ってしまった。


「親兄弟に見離され、赤の他人の傾城(けいせい)に、かわいがらりょうはずがない」
常磐津『后の月酒宴島台』、通称『角兵衛』の常磐津と長唄の掛け合いの曲中で歌われる投げ節の一節。


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《第十》 掃除は無意義


映画(1975) より

 やがてぱたぱた書斎中を叩き散らす音がするのは、例によって例のごとき掃除を始めたのである。いったい掃除の目的は運動のためか遊戯のためか、掃除の役目を帯びぬ吾輩の関知するところでないから知らん顔をしていればさしつかえないようなものの、ここの細君の掃除法のごときに至っては、すこぶる無意義のものと言わざるを得ない。なにが無意義であるかというと、この細君は単に掃除のために掃除をしているからである。


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《第十》 掃除は無意義2


映画(1975) より

 ハタキを一通り障子へかけて、ホウキを一応畳の上へすべらせる。それで掃除は完成したものと解釈している。掃除の源因及び結果に至っては微塵の責任だに背負っておらん。それゆえに、きれいな所は毎日きれいだが、ゴミのある所、ホコリの積もっている所は、いつでもゴミが溜まってホコリが積もっている。告朔の〓羊【〓は「饋」の「貴」の代わりに「氣」】(こくさくのきよう)という故事もある事だから、これでもやらんよりはましかもしれない。しかしやっても別段主人のためにはならない。ならないところを毎日毎日ご苦労にもやるところが細君のえらいところである。細君と掃除とは多年の習慣で、器械的の連想をかたちづくって頑として結びつけられているにもかかわらず、掃除の実に至っては、細君がいまだ生まれざる以前のごとく、ハタキとホウキが発明せられざる昔のごとく、ちっとも上がっておらん。思うにこの両者の関係は形式論理学の命題における名辞のごとく、その内容のいかんにかかわらず結合せられたものであろう。


「告朔の〓【〓は「饋」の「貴」の代わりに「氣」】羊」
【論語】子貢が「告朔の礼」(昔、中国で、月初めの一日ごとに祖廟にいけにえの羊を供え、月ごとに暦を請い受ける行事)が形式化しているので廃止しようとしたのに対し、孔子は「今は虚礼となっても、害のないことは廃絶せずに残しておくことが大切である」と述べた。


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《第十》 空腹になって参った


映画(1975) より

 吾輩は主人と違って元来が早起きの方だから、この時すでに空腹になって参った。とうていうちのものさえ膳に向かわぬさきから、猫の身分をもって朝飯にありつける訳のものではないが、そこが猫の浅ましさで、もしや煙の立った汁のにおいが、鮑貝(あわびがい/吾輩の食器)の中からうまそうに立ち上がっておりはすまいかと思うとじっとしていられなくなった。はかない事をはかないと知りながら頼みにするときは、ただその頼みだけを頭の中に描いて動かずに落ちついている方が得策であるが、さて、そうは行かぬもので、心の願いと実際が合うか合わぬかぜひとも試験してみたくなる。試験してみれば必ず失望するに決まってる事ですら、最後の失望をみずから事実の上に受け取るまでは承知できんものである。


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《第十》 空腹になって参った2



 吾輩はたまらなくなって台所へ這い出した。まずへっつい(かまど)の影にある鮑貝(あわびがい)の中をのぞいてみると、案に違(たが)わず、夕べなめ尽くしたままひっそりと静まりかえって、怪しき光が引き窓をもる初秋の陽射しにかがやいている。おさんはすでに炊きたての飯をお櫃(おはち/おひつ)に移して、今や七輪にかけた鍋の中をかきまぜつつある。釜の周囲には沸き上がって流れだした米の汁がカサカサに幾筋となくこびりついて、あるものは吉野紙を貼りつけたごとくに見える。もう飯も汁もできているのだから食わせてもよさそうなものだと思った。こんな時に遠慮するのはつまらない話だ。よしんば自分の望み通りにならなくったって元々で損はいかないのだから、思い切って朝飯の催促をしてやろう。いくら居候の身分だってひもじいに変わりはない。と、考えさだめた吾輩は、にゃあにゃあと甘えるごとく、訴うるがごとく、あるいはまた怨(えん)ずるがごとく鳴いてみた。


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《第十》 御多角



 おさんはいっこう顧(かえり)みる景色がない。生まれついてのお多角だから人情に疎いのはとうから承知の上だが、そこをうまく泣きたてて同情を起こさせるのがこっちの手際である。今度はにゃごにゃごとやってみた。その泣き声は我ながら悲壮の音を帯びて、天涯(故郷を遠く離れた地)の遊子(ゆうし/旅人)をして断腸の思い(はらわたがちぎれるほど、悲しくつらいこと)あらしむる(異郷を旅する人に、深く旅愁を感じさせる)に足ると信ずる。
 おさんはてんとして(気にかけないで平然としているさま)顧(かえり)みない。この女は聾(つんぼ)なのかも知れない。聾では下女が勤まる訳がないが、ことによると猫の声だけには聾なのだろう。世の中には色盲というのがあって、当人は完全な視力をそなえているつもりでも、医者から言わせると片輪(かたわ)だそうだが、このおさんは声盲(せいもう)なのだろう。


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《第十》 しめ出しとのら犬


画/司 修

 声盲だって片輪に違いない。片輪のくせにいやにえらそうなものだ。夜中なぞでも、いくらこっちが用があるから開けてくれろと言っても決して開けてくれた事がない。たまに出してくれたと思うと今度はどうしても入れてくれない。夏だって夜露は毒だ。いわんや霜(しも)においてをやで、軒下に立ち明かして日の出を待つのはどんなに辛いかとうてい想像ができるものではない。この間締め出しを食った時なぞは、野良犬の襲撃をこうむってすでに危うく見えたところを、ようやくの事で物置の屋根へかけ上がって終夜ふるえつづけた事さえある。これらは皆、おさんの不人情から胚胎(はいたい/物事の起こる原因やきざしが生じること)した不都合である。


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《第十》 美妙の音



 こんなものを相手にして鳴いてみせたって、感応のあるはずはないのだが、そこがひもじい時の神頼み(「苦しい時の神頼み」のもじり)貧の盗みに恋の文(ふみ)(せっぱつまると人間はどんなことでもする、というたとえ)と言うくらいだから、たいていの事ならやる気になる。
 にゃごおうにゃごおうと、三度目には注意を喚起するために、ことさらに複雑なる鳴き方をしてみた。自分ではベートーべンのシンフォニーにも劣らざる美妙の音と確信しているのだが、おさんにはなんらの影響も生じないようだ。おさんは突然膝をついて揚げ板を一枚はねのけて、中から堅炭の四寸ばかり長いのを一本つかみ出した。それからその長い奴を七輪の角でぽんぽんとたたいたら、長いのが三つほどに砕けて近所は炭の粉で真っ黒くなった。少々は汁の中へも入ったらしい。おさんはそんな事に頓着する女ではない。ただちにくだけたる三個の炭を鍋の尻から七輪の中へ押しこんだ。とうてい吾輩のシンフォニーには耳を傾けそうにもない。


「貧の盗みに恋の文」
「貧の盗みに恋の歌」ということわざのもじり。
貧乏で生活が苦しいから盗みをはたらき、恋の悩みが辛いから歌をつくる。人間は、必要にせまられるとどんなことでもするようになるというたとえ。


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《第十》 風呂場は繁盛


画/岩崎年勝

 しかたがないから悄然と茶の間の方へ引きかえそうとして風呂場の横を通り過ぎると、ここは今、女の子が三人で顔を洗ってる最中でなかなか繁盛している。顔を洗うと言ったところで、上の二人が幼稚園の生徒で、三番目は姉の尻についてさえ行かれないくらい小さいのだから、正式に顔が洗えて器用にお化粧ができるはずがない。


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《第十》 それは雑布よ


画/小沢良吉

 一番小さいのがバケツの中から濡れ雑巾を引きずり出してしきりに顔中撫でまわしている。雑巾で顔を洗うのはさだめし心持ちが悪かろうけれども、地震が揺れるたびに「おもちろいわ」と言う子だから、このくらいの事はあっても驚くに足らん。ことによると八木独仙君より悟っているかもしれない。さすがに長女は長女だけに姉をもってみずから任じているから、うがい茶碗をカラカラカンと放り出して「坊やちゃん、それは雑巾よ」と雑巾をとりにかかる。


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