「吾輩は猫である」

  挿画でつづる漱石の猫 I AM A CAT illustrated
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埼玉のタビネコさんから、「姥子問答」に関する論文が ! [1]

2010年の夏は大変暑かったですが、それを吹き飛ばすような熱い論文が当「猫」ブログの方に寄せられました。
この 5 〜 6月に掲載した、トラ猫さんとの「姥子問答」に対する回答編といっていい、素晴らしい内容です。資料に裏打ちされ、説得力アリ !
今回、筆者のハンドルネーム・タビネコさんより許可頂けましたので、全文掲載させていただきます。ではどうぞ。


…はじめまして。

今年も姥子に行く季節だな〜、なんて思ってネット検索しているうちに貴サイトにたどりつき、「姥子問答」興味深く拝読させていただきました。

「漱石は秀明館に宿泊したのか否か?」

正直、文学にはとんと疎く、秀明館においてある天山発行の瓦版などで漱石の『吾輩は猫である』や田山花袋の紀行文などに姥子が登場することは知っていましたが、「へぇ、逗留したんだぁ〜」くらいの受け止め方で (笑)、それ以上深く考えてはいなかったのですけど。
今回調べてみたら色々わかってくることもあり、なかなか楽しゅうございます。
もっとも同時に新たな謎も生まれてきて、かなり奥の深い命題です。
長くなってしまうので、コメントの方ではなく、とりあえずメールさせて頂きます。

探し出した資料では、“秀明館”としての創業は明治35年 (1902)、となるようです。
しかし明治35年以前も、少なくとも記録のはっきりしている明治20年代から昭和40年代に入るまでこの地に温泉宿は1件のみです。
資料関係を順番に追っていきますと…

まず、下の一文は、秀明館資料室の説明板に書いてあったこと。
手で書き写したので、抜けや分からなくなった部分もありますが…

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◆長閑な文人墨客の逗留 (秀明館資料室の説明板より抜粋)

明治に入って、箱根の人・高瀬道正氏の経営するところとなり、時代に応じた旅館としての体制が整備されたと思われます。
高瀬氏は当時、芦ノ湖畔で「ハフヤ」という外国人の避暑客のための木造ホテル (現在の箱根ホテル) をいち早く手がけていました。
その後明治35年に西村秀作氏に経営が移り、父子二代に渡り繁盛をみました。二代目の西村秀一氏は二紀会員の洋画家としても活躍され、この地を題材とした多くの作品を残されています。
明治・大正・昭和と、時の移ろう間に、夏目漱石、田山花袋、横山大観、水原秋桜子等、多くの文人墨客が訪れて親しまれていたようで、その作品中に描かれていて興味深くうかがい知ることができます。
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この上半分の内容は、「姥子問答」 [6] にある『箱根彩景』(2000) に掲載された写真のキャプションと概ね同じです。
中段部分では、西村秀作氏に経営が移った後父子2代で宿を営み繁盛したことが書かれています。
2代目秀一氏は画家だったのですね。
そういう目で秀明館内部に飾られている絵を見ると、「H.NISHIMURA」或いは「N.H」のイニシャルの入った、西村秀一氏の作と思われる絵や版画がいくつかありました。
秀明館俯瞰図の版画とか。


次の資料は偶然地元の図書館の検索にかかって借りたもの。
とんでもなくマニアックな資料です。

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◆『箱根温泉史〜七湯から一九湯へ〜』 箱根温泉旅館協同組合 編
 昭和61年 (1986) 3月25日初版発行



○112ページ
また、このころの姥子温泉については先の案内記(※)によると

姥子ノ湯
源泉冠ヶ嶽、泉質礬鉄二気を混ず これは元箱根村の総持にして浴室三ヶ所あり、泉期に至れば、村中年番を定めて此地の湯戸に派出して営業をなす

とあり、姥子が箱根の温泉場に仲間入りするのは明治20年代からである。

(※) 明治10年 (1877) 発行の『箱根熱海温泉案内』

○114ページ 
姥子温泉
明治21年 (1888) の『箱根鉱泉誌』には、
「湯亭ハ一戸ニシテ客舎四棟アリト雖モ柄悪ニシテ貴客ノ滞留ニ堪エズ、近郷ノ農夫村婦来タリテ浴スルノミ」と記されている。
その後、高瀬道正がこの地に定住し湯宿を経営してから、温泉場の一つに数えられるようになったと思われる。
『箱根温泉案内』(明治27年 1894)は「温泉宿、高瀬道正の一戸のみにして客舎五棟あり、此地僻諏にあるを以て諸事不便なれども、此温泉は眼疾に特功著しきを以て来り浴するもの多し、温泉は巌石を鑿断しその罅隙より湧出づ、故に巌を穿ちて浴槽とす。七湯中未だ見ざるところとす、称して之を大湯と呼ぶ」

と記して、姥子温泉を紹介している。

また『箱根温泉誌』(明治26年 1893)には、
「湖水の北端湖尻という処に新湯といへる一軒の浴舎ありしが、今年の春に焼亡せしより再び建築するものなし、湯は此地に出しにあらず、東の山中より十丁余り引き来りしなり」

とあり、元箱根の村人が、渡船の便ある湖尻に姥子の湯を引き、浴舎を設けた時期があった。
その後姥子温泉は明治35年 (1902) 西村秀作が元箱根村より鉱泉権を取得して秀明館を開業、今日に至っている。
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明治10年代、それから明治21年 (1888) の時点では、

“元箱根村の総持”

とあるので、おそらく元箱根村所有。
“泉期に至れば“というのは、姥子温泉は自然湧出で、冬湧出が止まり、春先から湧出を初めて夏の頃がもっとも湧出量が多い、といった性質があるので、お湯が湧き出す時期になったら、年ごとの当番を定めて派遣して管理させたということかと思われます。
「元箱根村村営の温泉宿舎(季節営業)」といったところでしょうか。

ガラが悪くてちゃんとした客が逗留できるようなシロモノではなかったかのような記述ですが、しかし、温泉場にまだ数えられていないにも関わらず、内務省衛生局発行の『日本温泉誌』に記されている
明治14年〜16年の3カ年の年間平均浴客数は、姥子においては凡そ4000人…だそうです。
季節営業であることを考慮すると、結構な人数かと思います。

その後、明治20年代のどの時点かは不明ですが、高瀬道正氏が経営するようになって温泉宿として整えられていったようですが、この頃の宿の名前は見あたりません。
箱根の郷土資料館に「相州箱根温泉真景圖 (明治35年4月12日印刷仝年仝月25日発行)」という観光マップのようなものを引き伸ばしたものが展示されていたのですけれど、塔ノ沢の「福住」芦之湯の「紀伊国屋」「松坂屋」等、他の温泉地ではちゃんと宿名と主人名とが掲載されているのに、姥子は 「姥子温泉宿 高瀬道正 (地図中は「高せ」「TAKASE」)」 と宿の主人の名前のみ。他に仙石原温泉も主人名だけの記載でした。宿名がなかったのか、辺鄙すぎて伝わらなかったのか・・・「姥子温泉宿」が宿名ではないでしょうね。
或いは主人の名前「高瀬」 = 宿名なのか…1軒宿なら宿名がなくとも特に支障はなかったかもしれませんが。

そして明治35年に西村秀作氏に鉱泉権が移った時点で秀明館開業。
したがって、この資料に基づくなら、そしてもし漱石が訪れたのが
明治23年8月末 〜 9月であれば、まだその時点では秀明館という宿ではなかったことになります。
高瀬氏の経営する名称不明の湯宿か、まだ元箱根村の村人が年番で派遣されていた頃なのか…微妙な年代ですね。
一方、漱石が明治35年 (1902) 以降に訪れた、或いは再訪することがあったのであれば、その頃は「秀明館」ということになるかと思います。

ですが…。

[2] に続きます。
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