「吾輩は猫である」

  挿画でつづる漱石の猫 I AM A CAT illustrated
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《第三》 曾呂崎の事


画/北沢楽天

 迷亭は人の家も自分の家も同じものと心得ているのか、案内も乞わずずかずか上がってくるのみならず、時には勝手口から飄然(ひょうぜん)と舞いこむ事もある。心配、遠慮、気兼ね、苦労を、生まれる時どこかへ振り落とした男である。
「また巨人引力かね」と立ったまま主人に聞く。
「そう、いつでも巨人引力ばかり書いてはおらんさ。天然居士の墓銘を撰(せん)して(詩歌・文章を選び抜いて書物にまとめること)いるところなんだ」と大袈裟な事を言う。
天然居士というなあ、やはり偶然童子のような戒名かね」と迷亭はあいかわらずでたらめを言う。
偶然童子というのもあるのかい」
「なに、ありゃしないが、まずその見当だろうと思っていらあね」
偶然童子というのは僕の知ったものじゃないようだが、天然居士というのは君の知ってる男だぜ」
「いったいだれが天然居士なんて名をつけてすましているんだい」
「例の曾呂崎(そろさき)の事だ。卒業して大学院へ入って空間論という題目で研究していたが、あまり勉強し過ぎて腹膜炎で死んでしまった。曾呂崎はあれでも僕の親友なんだからな」
「親友でもいいさ、決して悪いと言いやしない。しかしその曾呂崎を天然居士に変化させたのはいったい誰の所作だい」
「僕さ、僕がつけてやったんだ。元来、坊主のつける戒名ほど俗なものは無いからな」と天然居士はよほど雅(が)な名のように自慢する。
 迷亭は笑いながら「まあ、その墓碑銘(ぼひめい)という奴を見せたまえ」と原稿を取り上げて「なんだ……空間に生まれ、空間を究め、空間に死す。空たり間たり天然居士 噫(ああ)」と大きな声で読みあげる。「なるほど、こりゃあ、いい。天然居士相当のところだ」
 主人は嬉しそうに「いいだろう」と言う。
「この墓銘(ぼめい)をタクアン石へ彫りつけて本堂の裏手へ力石(ちからいし)のように放り出しておくんだね。雅(が)でいいや、天然居士も浮かばれる訳だ」
「僕もそうしようと思っているのさ」と主人はしごく真面目に答えたが「僕ぁちょっと失敬するよ、じき帰るから猫でもからかっていてくれたまえ」と迷亭の返事も待たず風然(ふうぜん)と出て行く。



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