「吾輩は猫である」

  挿画でつづる漱石の猫 I AM A CAT illustrated
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《第三》 寒月、演説の稽古2



「罪人を絞罪(こうざい)の刑に処するという事は、おもにアングロサクソン民族間に行われた方法でありまして、それより古代にさかのぼって考えますと首くくりはおもに自殺の方法として行われたものであります。
 ユダヤ人中にあっては、罪人を石を投げつけて殺す習慣であったそうでございます。旧約全書を研究してみますと、いわゆるハンギングなる語は罪人の死体をつるして野獣または肉食鳥の餌食(えじき)とする意義と認められます。ヘロドタスの説に従ってみますと、ユダヤ人はエジプトを去る以前から、夜中、死骸をさらされることを痛く忌(い)み嫌ったように思われます。
 エジプト人は罪人の首を斬って胴だけを十字架に釘づけにして夜中さらし物にしたそうでございます。ペルシア人は……」
「寒月君、首くくりと縁がだんだん遠くなるようだが大丈夫かい」と迷亭が口を入れる。
「これから本論に入るところですから、少々ごしんぼうを願います。……さてペルシア人はどうかと申しますと、これもやはり処刑には磔(はりつけ)を用いたようでございます。ただし生きているうちに磔(はりつけ)にいたしたものか、死んでから釘を打ったものか、その辺はちとわかりかねます……」
「そんな事はわからんでもいいさ」と主人は退屈そうにあくびをする。
「まだいろいろお話しいたしたい事もございますが、ご迷惑であらっしゃいましょうから……」
「『あらっしゃいましょう』より、『いらっしゃいましょう』の方が聞きいいよ。ねえ、苦沙弥君」と、また迷亭が咎(とが)めだてをすると、主人は「どっちでも同じ事だ」と気のない返事をする。
「さて、いよいよ本題に入りまして弁じます」
「『弁じます』なんか講釈師の言い草だ。演説家はもっと上品な言葉を使ってもらいたいね」と迷亭先生、またまぜ返す。
「『弁じます』が下品ならなんと言ったらいいでしょう」と寒月君は少々むっとした調子で問いかける。
「迷亭のは聞いているのか、まぜ返しているのか判然しない。寒月君、そんな野次馬に構わずさっさとやるがいい」と主人はなるべく早く難関を切り抜けようとする。
「『むっとして 弁じましたる 柳かな』、かね」と迷亭はあいかわらず飄然(ひょうぜん)たる事を言う。寒月は思わず吹き出す。


「ヘロドタス」
ヘロドトス Herodotus(前485年頃 - 前420年頃)
古代ギリシアの歴史家。



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