「吾輩は猫である」

  挿画でつづる漱石の猫 I AM A CAT illustrated
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《第七》 吾輩と運動6


彫刻/松村外次郎

 海水浴は追って実行する事にして、運動だけは取りあえずやる事に取りきめた。どうも二十世紀の今日(こんにち)、運動せんのはいかにも貧民のようで人聞きが悪い。運動をせんと、運動せんのではない、運動ができんのである、運動をする時間がないのである、余裕がないのだ、と鑑定される。昔は運動したものが折助(おりすけ/近世、武家で使われた下男の異称)と笑われたごとく、今では運動をせぬ者が下等と見なされている。彼らの評価は時と場合に応じ吾輩の目玉のごとく変化する。吾輩の目玉はただ小さくなったり大きくなったりするばかりだが、人間の品さだめとくると真っ逆さまにひっくり返る。
 ひっくり返ってもさしつかえはない。物には両面がある。両端がある。両端を叩いて黒白の変化を同一物の上に起こすところが人間の融通のきくところである。方寸(ほうすん/胸の中。心)を逆さまにして見ると寸方となるところに愛嬌がある。天の橋立を股倉(またぐら)からのぞいてみるとまた格別な趣が出る。セクスピヤ(シェークスピア)も千古万古セクスピヤではつまらない。たまには股倉からハムレットを見て、『君、こりゃ駄目だよ』くらいに言う者がないと、文界も進歩しないだろう。


「方寸」
【蜀志】『諸葛亮伝』から。
昔、心臓の大きさは1寸四方(約3センチ四方)と考えられていたことから、「胸のうち、心」の意に。



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