「吾輩は猫である」

  挿画でつづる漱石の猫 I AM A CAT illustrated
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《第八》 ぐるりの事6


映画(1936) より

 吹き通しも夏はせいせいして心持ちがいいものだ。不用心だって金のないところに盗難のあるはずはない。だから主人の家に、あらゆる塀、垣、ないしは乱杭、逆茂木(さかもぎ/敵の侵入を防ぐために、先端を鋭くとがらせた木の枝を外に向けて並べ、結び合わせた柵)の類はまったく不要である。しかしながら、これは空き地の向こうに住まいする人間、もしくは動物の種類いかんによって決せらるる問題であろうと思う。従ってこの問題を決するためには、勢い、向こう側に陣取っている君子の性質を明らかにせんければならん。人間だか動物だかわからない先に君子と称するのははなはだ早計のようではあるが、たいてい君子で間違はない。『梁上(りょうじょう)の君子』などと言って泥棒さえ君子と言う世の中である。ただし、この場合における君子は決して警察の厄介になるような君子ではない。警察の厄介にならない代わりに、数でこなした者とみえてたくさんいる。うじゃうじゃいる。落雲館(らくうんかん)と称する私立の中学校――八百の君子をいやが上に君子に養成するために毎月二円の月謝を徴集する学校である。名前が落雲館だから風流な君子ばかりかと思うと、それがそもそもの間違いになる。その信用すべからざる事は群鶴館(ぐんかくかん)に鶴の下りざるごとく、臥竜窟に猫がいるようなものである。学士とか教師とか号するものに主人・苦沙弥君のごとき気違いのある事を知った以上は、落雲館の君子が風流漢ばかりでないという事がわかる訳だ。それがわからんと主張するなら、まず三日ばかり主人のうちへ泊まりにきてみるがいい。


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