「吾輩は猫である」

  挿画でつづる漱石の猫 I AM A CAT illustrated
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《第十》 掃除は無意義2


映画(1975) より

 ハタキを一通り障子へかけて、ホウキを一応畳の上へすべらせる。それで掃除は完成したものと解釈している。掃除の源因及び結果に至っては微塵の責任だに背負っておらん。それゆえに、きれいな所は毎日きれいだが、ゴミのある所、ホコリの積もっている所は、いつでもゴミが溜まってホコリが積もっている。告朔の〓羊【〓は「饋」の「貴」の代わりに「氣」】(こくさくのきよう)という故事もある事だから、これでもやらんよりはましかもしれない。しかしやっても別段主人のためにはならない。ならないところを毎日毎日ご苦労にもやるところが細君のえらいところである。細君と掃除とは多年の習慣で、器械的の連想をかたちづくって頑として結びつけられているにもかかわらず、掃除の実に至っては、細君がいまだ生まれざる以前のごとく、ハタキとホウキが発明せられざる昔のごとく、ちっとも上がっておらん。思うにこの両者の関係は形式論理学の命題における名辞のごとく、その内容のいかんにかかわらず結合せられたものであろう。


「告朔の〓【〓は「饋」の「貴」の代わりに「氣」】羊」
【論語】子貢が「告朔の礼」(昔、中国で、月初めの一日ごとに祖廟にいけにえの羊を供え、月ごとに暦を請い受ける行事)が形式化しているので廃止しようとしたのに対し、孔子は「今は虚礼となっても、害のないことは廃絶せずに残しておくことが大切である」と述べた。


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