「吾輩は猫である」

  挿画でつづる漱石の猫 I AM A CAT illustrated
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漱石年譜で見る当時の学制の実際



1874年(明治7年)7歳
12月 公立の浅草寿町 戸田小学校 下等小学校 第八級に入学。


当時塩原家の養子になっていた。塩原夫妻が離婚し夏目家に戻ったものの戸籍は塩原姓のまま。21歳で夏目姓に戻るまでもめ事が続いておったという。

1878年(明治11年)11歳
4月 市ケ谷小学校 上等小学校 第八級を卒業。
10月 神田猿楽町 錦華学校小学尋常科二級後期を卒業。東京府立第一中学校(のちの日比谷高校)に入学。



1881年(明治14年)14歳
府立一中を中退。漢文を学ぶために二松学舎(私学)に転校。

1883年(明治16年)16歳
9月 大学予備門を受験するため、成立学舎に入学し英語を学ぶ。

1884年(明治17年)17歳
9月 大学予備門 予科に入学。

1886年(明治19年)19歳
4月 大学予備門が第一高等中学校(のちの第一高等学校)と改称される。
7月 腹膜炎に罹る。進級試験を受けず、成績も悪くて落第する。

1888年(明治21年)21歳
7月 第一高等中学校 予科を卒業する。
9月 同校 本科一部(文科)に入学する。

1889年(明治22年)22歳
1月 正岡子規を知る。

1890年(明治23年)23歳
7月 第一高等中学校 本科卒業
9月 東京帝国大学 文科大学 英文科に入学。
   文部省貸費生となる。



1892年(明治25年)25歳
4月 徴兵を避けるため分家届を出し、北海道後志国岩内郡吹上町17 浅岡方に移籍し、北海道平民となる。
5月 東京専門学校の講師となる。

夏、子規と京都、堺、岡山、松山を旅行する。高浜清(虚子)を知る。

1893年(明治26年)26歳
7月 東京帝国大学 文科大学 英文科を卒業。立花政樹(24年卒)に次いで2人目の卒業生。帝国大学大学院に進学する。
10月 東京高等師範学校の英語教師に就任。年俸450円(月額37円50銭)



1895年(明治28年)28歳
4月 愛媛県尋常中学校(松山中学校)に英語科教師として赴任。月給80円。
8月 子規が松山に帰り、漱石の下宿に住む。俳句に熱中する。
12月 貴族院書記官長中根重一の長女・鏡子と見合いをし婚約。



1896年(明治29年)29歳
4月 熊本県の第五高等学校講師として赴任。月給100円。
6月 結婚。
7月 教授となる。

1900年(明治33年)33歳
5月 文部省から英語研究のため満2年の英国留学を命ぜられる。現職のままで、留学費は年額1800円。
9月8日 横浜出航。

1902年(明治35年)35歳
9月19日 正岡子規没(享年36)。
12月5日 ロンドンを発ち帰国の途につく。

1903年(明治36年)36歳
1月 神戸港港。
1月22日 東京帰着。
3月 東京市本郷区千駄木57(第二高等学校教授 斎藤阿具の持ち家で、10年前には森鴎外が借りていた)に転居。
4月 第一高等学校講師に就任。年俸700円。
同時に、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の後任として東京帝国大学 文科大学 英文科講師を兼任。年俸800円。



1904年(明治37年)37歳
4月 家計の不足を補うために、明治大学講師を兼任。月給30円。
12月 高浜虚子の勧めで、文章会「山会」で「吾輩は猫である」を発表する。

1905年(明治38年)38歳
1月 「吾輩は猫である」を「ホトトギス」に発表。




蛇足ながら、有名な事実として、以下を。


1916年(大正5年)49歳
12月9日 午後6時45分、胃潰瘍により死去。夜、森田草平の発案で新海竹太郎がデスマスクを取る。
12月10日 遺体の解剖が東京帝国大学 医科大学で行われる。執刀は長与又郎。脳の重量は1425g。平均よりやや重いとされる。脳と胃を医科大学に寄付。
現在でも、漱石の脳は、東京大学医学部標本室(移動されてなければ)にホルマリン漬けになって眠っておられます。。。

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