「吾輩は猫である」

  挿画でつづる漱石の猫 I AM A CAT illustrated
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『吾輩ハ猫デアル』中篇 自序

【注記】「吾輩ハ猫デアル」中篇に収録された「序文」ではありますが、内容的に「後書き」相当なので、中篇(第六章から第九章)のラストにこの文章を持ってきました。


「猫」の稿を継ぐときには、たいてい初篇と同じ程な枚数に筆を擱(お)いて(書くのをやめて)、上下二冊の単行本にしようと思っていた。ところがなにかの都合でページが少し延びたので、書肆(しょし/出版社)は上中下にしたいと申し出た。その辺は営業上の関係で、著作者たる余には何等の影響もない事だから、それも善かろうと同意して、まずこれだけを中篇として発行する事にした。



 そこで序を書くときにふと思い出した事がある。余が倫敦(ロンドン)に居るとき、忘友・子規の病を慰めるため、当時彼の地(かのち)の模様を書いてはるばると二、三回長い消息(手紙)をした。無聊(ぶりょう/退屈なこと。気が晴れないこと)に苦しんでいた子規は、余の書簡を見ておおいに面白かったとみえて、『多忙の所を気の毒だが、もう一度何か書いてくれまいか』との依頼をよこした。この時子規はよほどの重体で(当時の子規は結核療養中だった)、手紙の文句もすこぶる悲惨であったから、情誼(じょうぎ/人とつきあう上での人情や誠意)上、何かしたためてやりたいとは思ったものの、こちらも遊んでいる身分ではなし、そう面白い種をあさってあるくような閑日月もなかったから、ついそのままにしているうちに子規は死んでしまった。
 筺底(きょうてい/文箱の中から)から出して見ると、その手紙にはこうある。


 僕ハモーダメニナッテシマッタ、毎日訳モナク号泣シテイルヨウナ次第ダ、ソレダカラ新聞雑誌ヘモ少シモ書カヌ。手紙ハ一切廃止。ソレダカラ御無沙汰シテマス。今夜ハフト思イツイテ特別ニ手紙ヲカク。イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常ニ面白カッタ。近来僕ヲ喜バセタモノノ随一ダ。僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガッテイタノハ君モ知ッテルダロー。ソレガ病人ニナッテシマッタノダカラ残念デタマラナイノダガ、君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ往(い)ッタヨウナ気ニナッテ愉快デタマラヌ。モシ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテルウチニ今一便ヨコシテクレヌカ(無理ナ注文ダガ)
 画ハガキモ慥(たしか)ニ受取ッタ。倫敦(ロンドン)ノ焼芋ノ味ハドンナカ聞キタイ。
 不折(猫の挿画を描くことになる中村不折)ハ今、巴里(パリ)ニ居テ、コーランノ処(イスラム寺院)へ通ッテ居ルソウジャナイカ。君ニ逢(お)ウタラ鰹節一本贈ルナドト言ウテイタガ、モーソンナモノハ食ウテシマッテアルマイ。
 虚子(高浜虚子)ハ男子ヲ挙ゲタ。僕ガ年尾トツケテヤッタ。(虚子の長男の名前を「年尾」と命名した)
 錬郷死ニ 非風死ニ 皆僕ヨリ先ニ死ンデシマッタ。
 僕ハトテモ君ニ再会スルコトハ出来ヌト思ウ。万一出来タトシテモソノ時ハ話モ出来ナクナッテルデアロー。実ハ僕ハ生キテイルノガ苦シイノダ。僕ノ日記ニハ「古白曰来」(こはく いわく きたれ)ノ四字ガ特書シテアル処ガアル。
 書キタイコトハ多イガ苦シイカラ許シテクレタマエ。
  明治三十四年十一月六日灯下ニ書ス

  東京 子規 拝
  倫敦(ロンドン)ニテ
   漱石 兄


「古白曰来」
「古白」とは、ピストル自殺をした子規の母方の従兄弟で、四歳年下の藤野古白のこと。一緒に暮らしていた母と妹が出掛けて一人きりになった時、あまりの病苦に発作的に自殺願望に襲われたが、その時に脳裏をかすめたのが、古白が「自分の所へ来い」と呼ぶ声だったという。


明治32年に子規から熊本五高の漱石に寄せられた書画(部分)。重くなっていく病状がうかがえる。

 この手紙は美濃紙へ行書で書いてある。筆力は垂死(瀕死)の病人とは思えぬ程たしかである。余はこの手紙を見るたびに、なんだか故人に対して済まぬ事をしたような気がする。『書きたいことは多いが苦しいから許してくれたまえ』とある文句は、つゆ偽りのない所だが、『書きたいことは書きたいが、忙しいから許してくれたまえ』という余の返事には少々の遁辞(とんじ/言い逃れの言葉)が入っている。憐れなる子規は、余が通信を待ち暮らしつつ、待ち暮らした甲斐もなく呼吸(いき)を引き取ったのである。
 子規はにくい男である。かつて『墨汁一滴』か何かの中に、『独乙(ドイツ)では姉崎や藤代が独乙語で演説をして大喝采を博しているのに、漱石は倫敦(ロンドン)の片田舎の下宿に燻(くすぶ)って、婆さんからいじめられている』というような事を書いた。こんな事を書くときはにくい男だが、『書きたいことは多いが、苦しいから許してくれたまえ』などと言われると気の毒でたまらない。余は子規に対してこの気の毒を晴らさないうちに、とうとう彼を殺してしまった。
 子規が生きていたら「猫」を読んで何と言うか知らぬ。あるいは、倫敦消息は読みたいが「猫」は御免(ごめん)だ、と逃げるかも分からない。しかし「猫」は余を有名にした第一の作物である。有名になった事がさほどの自慢にはならぬが、『墨汁一滴』のうちで暗(あん)に余を激励した故人に対しては、この作を地下に寄するのが、あるいは恰好(かっこう)かも知れぬ。季子は剣を墓にかけて、故人の意に酬(むく)いたと言うから、余もまた「猫」を碣頭(けっとう/墓碑)に献じて、往日の気の毒を五年後の今日に晴らそうと思う。
 子規は死ぬ時に糸瓜(へちま)の句を詠んで死んだ男である。だから世人は子規の忌日を糸瓜忌(へちまき)と称え、子規自身の事を糸瓜仏となづけて居る。余が十余年前、子規と共に俳句を作った時に

  長けれど 何の糸瓜(へちま)と さがりけり

という句をふらふらと得た事がある。糸瓜に縁があるから「猫」と共に併(あわ)せて地下に捧げる。

  どっしりと 尻を据(す)えたる 南瓜(かぼちゃ)かな

という句もその頃作ったようだ。同じく瓜という字のつく所をもってみると、南瓜も糸瓜も親類の間柄(あいだがら)だろう。親類づきあいのある南瓜の句を糸瓜仏に奉納するのに別段の不思議もないはずだ。そこでついでながらこの句も霊前に献上する事にした。子規は今どこにどうして居るか知らない。恐らくは据(す)えるべき尻がないので落ちつきをとる機会に窮しているだろう。余は未だに尻を持っている。どうせ持っているものだから、まずどっしりとおろして、そう人の思わく通り急には動かないつもりである。しかし子規は、また例の如く、尻持たぬわが身につまされて、遠くから余の事を心配するといけないから、亡友に安心をさせるため一言断っておく。

  明治三十九年十月



「よほどの重体で」
当時の子規は、結核菌が肺の病巣から血液を通じて脊椎に運ばれ発症する「脊椎カリエス」で寝たきりだった。


「季子は剣を墓にかけて、故人の意に酬いた」
【史記】『蒙求』の「掛剣」の故事
「春寒し墓に懸けたる季子の剣」


画/漱石
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