「吾輩は猫である」

  挿画でつづる漱石の猫 I AM A CAT illustrated
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「処女作追懐談」



「処女作追懐談」 夏目漱石
   初出:『文章世界』
     1908(明治41)年 9月15日

 私の処女作――と言えばまず『猫』だろうが、別に追懐する程のこともないようだ。ただ偶然ああいうものが出来たので、私はそういう時機に達していたというまでである。
 というのが、もともと私には何をしなければならぬということがなかった。もちろん生きているから何かしなければならぬ。する以上は、自己の存在を確実にし、ここに個人があるということを他にも知らせねばならぬくらいの了見(りょうけん)は、常人と同じように持っていたかも知れぬ。けれども創作の方面で自己を発揮しようとは、創作をやる前までも別段考えていなかった。
 話が自分の経歴みたようなものになるが、ちょうど私が大学を出てから間もなくのこと、ある日、外山正一氏からちょっと来いと言ってきたので行ってみると、教師をやってみてはどうかということである。私は別にやってみたいともやってみたくないとも思っていなかったが、そう言われてみると、またやってみる気がないでもない。それでとにかくやってみようと思ってそう言うと、外山さんは私を嘉納さんのところへやった。嘉納さんは高等師範の校長である。そこへ行ってまず話を聴いてみると、嘉納さんは非常に高いことを言う。教育の事業はどうとか、教育者はどうなければならないとか、とても我々にはやれそうにもない。今なら話を三分の一に聴いて仕事も三分の一くらいで済まして置くが、その時分は馬鹿正直だったので、そうはいかなかった。そこでとても私には出来ませんと断ると、嘉納さんがうまい事をいう。あなたの辞退するのを見てますます依頼したくなったから、とにかくやれるだけやってくれとのことであった。そう言われてみると、私の性質としてまた断り切れず、とうとう高等師範に勤めることになった。それが私のライフのスタートであった。
 ここでちょっと話が大戻りをするが、私も十五、六歳の頃は、漢書や小説などを読んで文学というものを面白く感じ、自分もやってみようという気がしたので、それを亡くなった兄に話してみると、兄は「文学は職業にゃならない、アッコンプリッシメント( accomplishment /芸事、たしなみ)に過ぎないものだ」と言って、むしろ私を叱った。しかしよく考えてみるに、自分は何か趣味を持った職業に従事してみたい。それと同時にその仕事が何か世間に必要なものでなければならぬ。何故(なぜ)というのに、困ったことには自分はどうも変物である。当時、変物の意義はよく知らなかった。しかし変物を以て自(みずか)ら任じていたとみえて、とても一々こちらから世の中に度を合わせていくことは出来ない。何か己(おのれ)を曲げずして趣味を持った、世の中に欠くべからざる仕事がありそうなものだ。――と、その時分私の眼に映ったのは、今も駿河台(するがだい)に病院を持っている佐々木博士の養父だとかいう佐々木東洋という人だ。あの人は誰もよく知っている変人だが、世間はあの人を必要としている。しかもあの人は己を曲ぐることなくして立派にやっていく。それから井上達也という眼科の医者がやはり駿河台に居たが、その人もちょうど東洋さんのような変人で、しかも世間から必要とせられていた。そこで私は自分もどうかあんな風にえらくなってやっていきたいものと思ったのである。ところが私は医者は嫌いだ。どうか医者でなくて何か好い仕事がありそうなものと考えて日を送っているうちに、ふと建築のことに思い当たった。建築ならば衣食住の一つで世の中になくて叶わぬのみか、同時に立派な美術である。趣味があると共に必要なものである。で、私はいよいよそれにしようと決めた。
 ところがちょうどその時分(高等学校)の同級生に、米山保三郎という友人がいた。それこそ真性変物で、常に宇宙がどうの人生がどうのと大きなことばかり言っている。ある日この男が訪ねて来て、例の如く色々哲学者の名前を聞かされた揚げ句の果てに、君は何になると尋ねるから、実はこうこうだと話すと、彼は一も二もなくそれを却(しりぞ)けてしまった。その時彼は「日本でどんなに腕を揮(ふる)ったって、セント・ポールズの大寺院のような建築を天下後世に残すことは出来ないじゃないか」とか何とか言って、盛んなる大議論を吐いた。そしてそれよりもまだ文学の方が生命があると言った。元来自分の考えはこの男の説よりもずっと実際的である。食べる(生活費を稼ぐ)ということを基点として出立した考えである。ところが米山の説を聞いてみると、なんだか空々漠々(くうくうばくばく)とはしているが、大きい事は大きいに違いない。衣食問題などはまるで眼中に置いていない。自分はこれに敬服した。そう言われてみるとなるほどまたそうでもあると、その晩即席に自説を撤回して、また文学者になる事に一決した。ずいぶんのんきなものである。
 しかし漢文科や国文科の方はやりたくない。そこでいよいよ英文科を志望学科と定めた。
 しかしその時分の志望は実に茫漠(ぼうばく)極まったもので、ただ英語英文に通達して、外国語でえらい文学上の述作をやって、西洋人を驚かせようという希望を抱いていた。ところがいよいよ大学へ入って三年を過ごしているうちに、段々その希望があやしくなってきて、卒業したときには、これでも学士かと思うような馬鹿が出来上がった。それでも点数がよかったので、人は存外信用してくれた。自分も世間へ対しては多少得意であった。ただ自分が自分に対すると甚(はなは)だ気の毒であった。そのうちぐずぐずしているうちに、この己に対する気の毒が凝結し始めて、体(てい)のいい往生(レシグネーション resignation)となった。わるく言えば立ち腐れを甘んずるようになった。その癖、世間へ対しては甚(はなは)だ気炎が高い。なんの高山の林公高山樗牛(林次郎))など、と思っていた。
 その中、洋行しないかということだったので、自分なんぞよりももっとどうかした人があるだろうから、そんな人を遣(や)ったらよかろうと言うと、まァそんなに言わなくても行ってみたらよいだろうとのことだったので、そんなら行ってみてもよいと思って行った。しかし留学中に段々文学がいやになった。西洋の詩などのあるものをよむと、まったく感じない。それを無理に嬉しがるのは、なんだかありもしない翅(つばさ)を生(は)やして飛んでる人のような、金がないのにあるような顔して歩いている人のような気がしてならなかった。ところへ池田菊苗君が独乙(ドイツ)から来て、自分の下宿へ留った。池田君は理学者だけれども、話してみると偉い哲学者であったには驚いた。だいぶ議論をやってだいぶやられた事を今に記憶している。倫敦(ロンドン)で池田君に逢ったのは、自分には大変な利益であった。おかげで幽霊のような文学をやめて、もっと組織だったどっしりした研究をやろうと思い始めた。それからその方針で少しやって、全部の計画は日本でやりあげるつもりで西洋から帰って来ると、大学に教えてはどうかということだったので、そんならそうしようと言って大学に出ることになった。(これも今言った自分の研究にはならないから、最初は断ったのである)
 さて正岡子規君とは元からの友人であったので、私が倫敦(ロンドン)に居る時、正岡に下宿で閉口した模様を手紙にかいて送ると、正岡はそれを『ホトトギス』に載せた。『ホトトギス』とは元から関係があったがそれが近因で、私が日本に帰った時(正岡はもう死んでいた)編集者の虚子(高浜虚子)から何か書いてくれないかとたのまれたので、初めて『吾輩は猫である』というのを書いた。ところが虚子がそれを読んで、これはいけませんと言う。訳を聞いてみると段々ある。今はまるで忘れてしまったが、とにかくもっともだと思って書き直した。
 今度は虚子がおおいに賞(ほ)めてそれを『ホトトギス』に載せたが、実はそれ一回きりのつもりだったのだ。ところが虚子が面白いから続きを書けというので、だんだん書いているうちにあんなに長くなってしまった。というような訳だから、私はただ偶然そんなものを書いたというだけで、別に当時の文壇に対してどうこうという考えも何もなかった。ただ書きたいから書き、作りたいから作ったまでで、つまり言えば、私がああいう時機に達していたのである。もっとも書き初めた時と、終わる時分とはよほど考えが違っていた。文体なども人を真似るのがいやだったから、あんな風にやってみたに過ぎない。
 なにしろそんな風で今日までやってきたのだが、以上を総合して考えると、私は何事に対しても積極的でないから、考えて自分でも驚いた。文科に入ったのも友人のすすめだし、教師になったのも人がそう言ってくれたからだし、洋行したのも、帰って来て大学に勤めたのも、『朝日新聞』に入ったのも、小説を書いたのも、皆そうだ。だから私という者は、一方から言えば、ひとが造ってくれたようなものである。


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