「吾輩は猫である」

  挿画でつづる漱石の猫 I AM A CAT illustrated
<< July 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>

「夏目漱石先生の追憶」 その1

第五高等中学校
旧制 第五高等中学校 正門
(設立の7年後に、高等学校令により「第五高等学校」に改称)


第五高等中学校2
旧制 第五高等学校 卒業記念写真(枠内・漱石)


「夏目漱石先生の追憶」 寺田寅彦(寒月のモデル)
   初出:『俳句講座』
     1932(昭和7)年 12月

 熊本第五高等学校(現在の熊本大学)在学中、第二学年の学年試験の終わったころの事である。同県(出身の)学生のうちで試験を「しくじったらしい」二、三人のために、それぞれの受け持ちの先生がたの私宅を歴訪して、いわゆる「点をもらう」ための運動委員が選ばれた時に、自分も幸か不幸かその一員にされてしまった。その時に夏目先生の英語をしくじったというのが自分の親類つづきの男で、それが家が貧しくて人から学資の支給を受けていたので、もしや落第するとそれきりその支給を断たれる恐れがあったのである。
 初めて尋ねた先生の家は白川の河畔(かはん)で、藤崎神社の近くの閑静な町であった。「点をもらいに」来る生徒には断然玄関払いを食わせる先生もあったが、夏目先生は平気で快く会ってくれた。そうして委細の泣き言の陳述を黙って聞いてくれたが、もちろん点をくれるともくれないとも言われるはずはなかった。とにかくこの重大な委員の使命を果たしたあとでの雑談の末に、自分は「俳句とはいったいどんなものですか」という世にも愚劣なる質問を持ち出した。それは、かねてから先生が俳人として有名なことを承知していたのと、そのころ自分で俳句に対する興味がだいぶ発酵しかけていたからである。その時に先生の答えたことの要領が今でもはっきりと印象に残っている。
「俳句はレトリック( rhetoric /文章表現の技法・技巧。修辞)の煎じ詰めたものである」
「扇のかなめ(扇の骨をとじ合わせるために、その末端に近い部分に穴をあけてはめ込む釘)のような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである」
「『花が散って雪のようだ』といったような常套(じょうとう/ありふれた)な描写を月並みという」
「『秋風や 白木の弓に つる張らん』といったような句は佳(よ)い句である」
「いくらやっても俳句のできない性質の人があるし、初めからうまい人もある」
 こんな話を聞かされて、急に自分も俳句がやってみたくなった。そうして、その夏休みに国(郷里/高知)へ帰ってから手当たり次第の材料をつかまえて二、三十句ばかりを作った。夏休みが終わって九月に熊本へ着くなり、何より先にそれを持って先生を訪問して見てもらった。その次に行った時に返してもらった句稿には、短評や類句を書き入れたり、添削したりして、その中の二、三の句の頭に○や○○が付いていた。
 それからが病みつきでずいぶん熱心に句作をし、一週に二、三度も先生の家へ通ったものである。そのころはもう白川畔の家は引き払って内坪井に移っていた。立田山麓(旧制第五高等学校は立田山麓にあった)の自分の下宿からはずいぶん遠かったのを、まるで恋人にでも会いに行くような心持ちで通ったものである。東向きの、屋根のない門をはいって突き当たりの玄関の靴脱ぎ石は、横降りの雨にぬれるような状態であったような気がする。雨の日など泥まみれの足を手ぬぐいでごしごしふいて上がるのはいいが、絹の座ぶとんにすわらされるのに気が引けた記憶がある。玄関の左に六畳ぐらいの座敷があり、その西隣が八畳ぐらいで、この二部屋が共通の縁側を越えて南側の庭に面していた。庭はほとんど何も植わっていない平庭で、前面の建仁寺垣(けんにんじがき/四つ割竹を垂直に皮を外側にしてすきまなく並べ、竹の押し縁(ぶち)を水平に取り付け、しゅろ縄で結んだもの。建仁寺で初めて用いた形式という)の向こう側には畑地があった。垣にからんだ朝顔のつるが冬になってもやっぱりがらがらになって残っていたようである。この六畳が普通の応接間で、八畳が居間兼書斎であったらしい。「朝顔や手ぬぐい掛けにはい上る」という先生の句があったと思う。その手ぬぐい掛けが六畳の縁側にかかっていた。先生はいつも黒い羽織を着て端然として正座していたように思う。結婚してまもなかった若い奥さんは、黒ちりめんの紋付きを着て玄関に出て来られたこともあった。田舎者の自分の目には先生の家庭がずいぶん端正で典雅なもののように思われた。いつでも上等の生菓子を出された。美しく水々とした紅白の葛餅(くずもち)のようなものを、先生が好きだとみえてよく呼ばれたものである。
 自分の持って行く句稿を、後には先生自身の句稿といっしょにして正岡子規の所へ送り、子規がそれに朱を加えて返してくれた。そうして、そのうちからの若干句が「日本」新聞第一ページ最下段左すみの俳句欄に載せられた。自分も先生のまねをしてその新聞を切り抜いては紙袋の中にたくわえるのを楽しみにしていた。自分の書いたものがはじめて活字になって現われたのがうれしかったのである。当時自分のほかに先生から俳句の教えを受けていた人々の中には厨川千江(くりやがわ せんこう)、平川草江(ひらかわ そうこう)、蒲生紫川(がもう しせん/後の原医学博士)等の諸氏があった。その連中で運座(俳諧で、多数の人が集まり一定の題によって句を作り、互選(参加者が互いに他人の作を選ぶこと)する会)というものを始め、はじめは先生の家でやっていたのが、後には他の家を借りてやったこともあった。時には先生と二人対座で十分十句などを試みたこともある。そういうとき、いかにも先生らしい凡想を飛び抜けた奇抜な句を連発して、そうして自分でもおかしがってくすくす笑われたこともあった。
 先生のお宅へ書生(家事を手伝いながら勉学する者)に置いてもらえないかという相談を持ち出したことがある。裏の物置きなら空いているから来てみろと言って案内されたその部屋は、第一、畳がはいであってゴミだらけでほんとうの物置きになっていたので、すっかりしょげてしまって退却した。しかし、あの時、いいからはいりますと言ったら、畳も敷いてきれいにしてくれたであったろうが、当時の自分にはその勇気がなかったのであった。
 そのころの先生の親しかった同僚教授がたの中には狩野亨吉(かのうこうきち)、奥 太一郎(おく たいちろう)、山川信次郎らの諸氏がいたようである。「二百十日」に出て来る一人が奥氏であるというのが定評になっているようである。

 学校ではオピアムイーター("Opium-Eater" by Thomas De Quincey/「英国 阿片吸飲者の告白」)や、サイラス・マーナー("Silas Marner" by George Eliot)を教わった。松山中学時代には非常に綿密な教え方で逐字的解釈(文の一語一語を忠実にたどって解釈すること)をされたそうであるが、自分らの場合には、それとは反対にむしろ達意を主とするやり方であった。先生がただすらすら音読していって、そうして「どうだ、わかったか」といったふうであった。そうかと思うと、文中の一節に関して、いろいろのクォーテーション(引用)を黒板へ書くこともあった。試験の時に、かつて先生の引用したホーマー( Homeros /ホメロスの英語読み。紀元前8世紀後半頃の古代ギリシアの詩人。代表作は『イーリアス』『オデュッセイア』)の詩句の数節を暗唱していたのをそっくり答案に書いて、おおいに得意になったこともあった。
 教場へはいると、まずチョッキのかくしから、鎖も何もつかないニッケル側の時計を出してそっと机の片すみへのせてから講義をはじめた。何か少しこみいった事について会心の説明をするときには、人さし指を伸ばして鼻柱の上へ少しはすかいに押しつける癖があった。学生の中に質問好きの男がいて根掘り葉掘りうるさく聞いていると、「そんなことは君、書いた当人に聞いたってわかりゃしないよ」と言って撃退するのであった。当時の先生は同窓の一部の人々にはたいそうこわい先生だったそうであるが、自分には、ちっともこわくない最も親しいなつかしい先生であったのである。
 科外講義としておもに文科の学生のために、朝七時から八時までオセロ("Othello" シェイクスピアの悲劇)を講じていた。寒い時分であったと思うが、二階の窓から見ていると黒のオーバーにくるまった先生が正門から泳ぐような格好で急いではいって来るのを「やあ、来た来た」と言ってはやし立てるものもあった。黒のオーバーのボタンをきちんとはめてなかなかハイカラでスマートな風采(ふうさい)であった。しかし自宅にいて黒い羽織を着て寒そうに正座している先生はなんとなく水戸浪士(みとろうし)とでもいったようなクラシカルな感じのするところもあった。
 暑休に先生から郷里へ帰省中の自分によこされたはがきに、足を投げ出して仰向けに昼寝している人の姿を簡単な墨絵にかいて、それに俳句が一句書いてあった。なんとかで「たぬきの昼寝かな」というのであった。たぬきのような顔にぴんと先生のようなひげをはやしてあった。このころからやはり昼寝の習慣があったとみえる。
 高等学校を出て大学へはいる時に、先生の紹介をもらって上根岸 鶯横町(かみねぎし うぐいすよこちょう)に病床の正岡子規(学徳のある人物に対する敬称。先生)をたずねた。その時、子規は、夏目先生の就職その他についていろいろ骨を折って運動をしたというような話をして聞かせた。実際子規と先生とは互いに畏敬(いけい)し合った最も親しい交友であったと思われる。しかし、先生に聞くと、時には「いったい、子規という男はなんでも自分のほうがえらいと思っている、生意気なやつだよ」などと言って笑われることもあった。そう言いながら、互いに許し合いなつかしがり合っている心持ちがよくわかるように思われるのであった。


『猫』について about I AM A CAT | permalink | comments(1) | - | - | - |
【前のページ】<< 「処女作追懐談」 | 【TOP】 |「夏目漱石先生の追憶」 その2 >>【次のページ】



この記事に対するコメント

旧制 第五高等学校 卒業記念写真は、人物の特定が間違っています。漱石とされている右側の人物が本当の漱石です。したがって枠内の人物は漱石ではありません。写真をよくご覧ください。癇癪持ちの漱石の顔は、すぐに分かる筈です。
正直正太夫 | 2013/12/13 11:18 PM
コメントする










RECENT COMMENTS
MOBILE
qrcode
PROFILE