「吾輩は猫である」

  挿画でつづる漱石の猫 I AM A CAT illustrated
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文鳥 [1]



 十月、早稲田に移る。





漱石は明治40年(1907)9月29日、千駄木邸のあと住んでいた東京市本郷区駒込西片町十番地ろノ7号から牛込区早稲田南町7番地に引っ越した。




 伽藍(がらん/通常「伽藍」は寺院の建築物のことだが、「がらんどう」の意も含まれているかもしれない)のような書斎にただ一人、片づけた顔(落ち着いてとりすました顔)を頬杖で支えていると、三重吉(当時、東京帝国大学英文科3年生だった鈴木三重吉が来て、鳥をお飼いなさいと云う。飼ってもいいと答えた。しかし念のためだから、何を飼うのかねと聞いたら、文鳥ですという返事であった。





画/橋口五葉




 文鳥は三重吉の小説(明治40年2月作の「三月七日」。のちに「鳥」と改題)に出て来るくらいだからきれいな鳥に違いなかろうと思って、じゃ買ってくれたまえと頼んだ。ところが三重吉はぜひお飼いなさいと、同じような事を繰り返している。うむ買うよ買うよとやはり頬杖をついたままで、むにゃむにゃ云ってるうちに三重吉は黙ってしまった。おおかた頬杖に愛想を尽かしたんだろうと、この時初めて気がついた。





鈴木三重吉 明治15年(1882)-昭和11年(1936)




 すると三分ばかりして、今度は籠(カゴ)をお買いなさいと云いだした。これもよろしいと答えると、ぜひお買いなさいと念を押す代わりに、鳥籠の講釈を始めた。その講釈はだいぶこみいったものであったが、気の毒な事にみんな忘れてしまった。ただ、よいのは二十円ぐらいすると云う段になって、急にそんな高いのでなくってもよかろうと云っておいた。三重吉はにやにやしている。
 それから、全体どこで買うのかと聞いてみると、なに、どこの鳥屋にでもありますと、実に平凡な答えをした。籠は、と聞き返すと、籠ですか、籠はその何ですよ、なに、どこにかあるでしょう、とまるで雲をつかむような寛大な事を云う。でも君、あてがなくっちゃいけなかろうと、あたかもいけないような顔をして見せたら、三重吉は頬っぺたへ手をあてて、なんでも駒込に籠の名人があるそうですが、年寄りだそうですから、もう死んだかもしれませんと、非常に心細くなってしまった。









 なにしろ言いだしたものに責任を負わせるのは当然の事だから、さっそく万事を三重吉に依頼する事にした。すると、すぐ金を出せと云う。金はたしかに出した。三重吉はどこで買ったか、七子(ななこ/七子織(ななこおり)。魚子繊 あるいは斜子織とも書き、折り目が方形で魚卵のように打ち違いに粒だって見える織り地。地が厚く、男子の羽織や帯にする)の三つ折の紙入れを懐中していて(ふところに入れて持っていて)、人の金でも自分の金でもことごとくみんな、この紙入れの中に入れる癖がある。自分は三重吉が五円札をたしかにこの紙入れの底へ押しこんだのを目撃した。
 かようにして金はたしかに三重吉の手に落ちた。
 しかし鳥と籠とは容易にやって来ない。









 そのうち秋が小春(こはる/初冬の、穏やかで暖かい春に似た日和が続くころ。また、陰暦10月の異称)になった。
 三重吉はたびたび来る。
 よく女の話などをして帰って行く。
 文鳥と籠の講釈はまったく出ない。
 硝子戸(ガラスど)を透かして五尺の縁側には日がよく当たる。どうせ文鳥を飼うなら、こんな暖かい季節に、この縁側へ鳥籠を据えてやったら、文鳥もさだめし鳴きよかろうと思うくらいであった。
 三重吉の小説によると、文鳥は『千代千代』(ちよちよ)と鳴くそうである。その鳴き声がだいぶん気に入ったとみえて、三重吉は千代千代を何度となく使っている。あるいは千代と云う女に惚れていた事があるのかもしれない。
 しかし当人はいっこうそんな事を云わない。
 自分も聞いてみない。
 ただ縁側に日がよく当たる。
 そうして文鳥が鳴かない。



文鳥は『千代千代』(ちよちよ)と鳴くそうである
前述、鈴木三重吉の「三月七日」に「鳥がくるくるくる 千代千代千代お千代」と啼(な)く。(中略)千代千代千代お千代といふ。くるりと向き変わってまた千代千代千代といふ。こんどはお千代千代千代 おちよーと、仕舞いを甲走って長く引っ張った」とある。
二月七日に漱石の木曜会で朗読した。



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