「吾輩は猫である」

  挿画でつづる漱石の猫 I AM A CAT illustrated
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文鳥 [3]


画/市川禎男




 やがて三重吉は鳥籠をていねいに箱の中へ入れて、縁側へ持ち出して、ここへ置きますからと云って帰った。自分は伽藍(がらん)のような書斎の真ん中に床(とこ/ふとん)を展(の)べて冷ややかに寝た。夢に文鳥を背負(しょ)いこんだ心持ちは、少し寒かったが眠ってみればふだんの夜のごとく穏やかである。
 翌朝眼が覚めると、硝子戸に日が射している。たちまち文鳥に餌をやらなければならないなと思った。けれども起きるのが退儀(たいぎ)であった。今にやろう、今にやろうと考えているうちに、とうとう八時過ぎになった。仕方がないから顔を洗うついでをもって、冷たい縁を素足で踏みながら、箱の蓋(ふた)を取って鳥籠を明るみへ出した。文鳥は眼をぱちつかせている。もっと早く起きたかったろうと思ったら気の毒になった。










 文鳥の眼は真っ黒である。まぶたのまわりに細い淡紅色(ときいろ/鴇色)の絹糸を縫いつけたような筋が入っている。眼をぱちつかせるたびに絹糸が急に寄って一本になる。と思うとまた丸くなる。籠を箱から出すや否や、文鳥は白い首をちょっと傾けながらこの黒い眼を移して、初めて自分の顔を見た。そうして、ちちと鳴いた。
 自分は静かに鳥籠を箱の上に据えた。文鳥はぱっと留り木を離れた。そうしてまた留り木に乗った。留り木は二本ある。黒味がかった青軸をほどよき距離に橋と渡して横に並べた。その一本を軽く踏まえた足を見るといかにも華奢(きゃしゃ)にできている。細長い薄紅(うすくれない)の端に真珠を削ったような爪がついて、手頃な留り木をうまく抱えこんでいる。すると、ひらりと眼先が動いた。文鳥はすでに留り木の上で向きを変えていた。しきりに首を左右に傾ける。傾けかけた首をふと持ち直して、心持ち前へ伸ばしたかと思ったら、白い羽根がまたちらりと動いた。文鳥の足は向こうの留り木の真ん中あたりに具合よく落ちた。ちちと鳴く。そうして遠くから自分の顔をのぞきこんだ。



「青軸」
「梅の一種、うてな、若枝、ともに緑なるもの」(言海)







画/加藤千香子 新潮文庫表紙より




 自分は顔を洗いに風呂場へ行った。帰りに台所へまわって、戸棚を開けて、ゆうべ三重吉の買って来てくれた粟の袋を出して、餌壺の中へ餌を入れて、もう一つには水を一杯入れて、また書斎の縁側へ出た。
 三重吉は用意周到な男で、ゆうべていねいに餌をやる時の心得を説明していった。その説によると、むやみに籠の戸を開けると文鳥が逃げ出してしまう。だから右の手で籠の戸を開けながら、左の手をその下へあてがって、外から出口を塞(ふさ)ぐようにしなくっては危険だ。餌壺を出す時も同じ心得でやらなければならない。と、その手つきまでして見せたが、こう両方の手を使って、餌壺をどうして籠の中へ入れる事ができるのか、つい聞いておかなかった。
 自分はやむをえず、餌壺を持ったまま手の甲で籠の戸をそろりと上へ押し上げた。同時に左の手で開いた口をすぐ塞(ふさ)いだ。鳥はちょっと振り返った。そうして、ちちと鳴いた。自分は出口を塞いだ左の手の処置に窮した。人の隙を窺(うかが)って逃げるような鳥とも見えないので、なんとなく気の毒になった。三重吉は悪い事を教えた。






画/津田青楓
漱石山房の常連だった画家・津田の「漱石と十弟子」によると、三重吉は山房きっての派手な存在で、故郷の広島弁で無邪気によくしゃべったそうです。





 大きな手をそろそろ籠の中へ入れた。すると文鳥は急に羽ばたきを始めた。細く削った竹の目から、暖かいむく毛が白く飛ぶほどに翼を鳴らした。自分は急に自分の大きな手が厭(いや)になった。粟(あわ)の壺と水の壺を留り木の間にようやく置くや否や、手を引きこました。籠の戸ははたりとひとりでに落ちた。文鳥は留り木の上に戻った。白い首をなかば横に向けて、籠の外にいる自分を見上げた。それから曲げた首をまっすぐにして足のもとにある粟と水を眺めた。自分は食事をしに茶の間へ行った。



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