「吾輩は猫である」

  挿画でつづる漱石の猫 I AM A CAT illustrated
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文鳥 [5]






 自分はそっと書斎へ帰って淋しくペンを紙の上に走らしていた。縁側では文鳥が「ちち」と鳴く。折々は「千代千代」とも鳴く。外では木枯らしが吹いていた。
 夕方には文鳥が水を飲むところを見た。細い足を壺の縁(ふち)へかけて、小い嘴に受けた一雫(ひとしずく)を大事そうに、仰向いてのみくだしている。この分では一杯の水が十日ぐらい続くだろうと思ってまた書斎へ帰った。晩には箱へしまってやった。寝る時、硝子戸から外をのぞいたら、月が出て、霜(しも)が降っていた。文鳥は箱の中でことりともしなかった。
 明くる日もまた、気の毒な事に遅く起きて、箱から籠を出してやったのはやっぱり八時過ぎであった。箱の中ではとうから目が覚めていたんだろう。それでも文鳥はいっこう不平らしい顔もしなかった。籠が明るい所へ出るや否や、いきなり眼をしばたたいて、心持ち首をすくめて、自分の顔を見た。










 昔、美しい女を知っていた。この女が机にもたれて何か考えているところを、後ろからそっと行って、紫の帯上げの房になった先を長く垂らして、首筋の細いあたりを上からなでまわしたら、女は物憂げに後ろを向いた。その時女の眉は心持ち八の字に寄っていた。それで目尻と口元には笑みが萌(きざ)していた。同時に恰好のよい首を肩まですくめていた。文鳥が自分を見た時、自分はふとこの女の事を思い出した。この女は今嫁に行った。自分が紫の帯上げでいたずらをしたのは縁談のきまった二、三日後である。









 餌壺にはまだ粟が八分通り入っている。しかし殻もだいぶ混じっていた。水入には粟の殻が一面に浮いて、いたく濁っていた。易(か)えてやらなければならない。また大きな手を籠の中へ入れた。非常に用心して入れたにもかかわらず、文鳥は白い翼を乱して騒いだ。小い羽根が一本抜けても、自分は文鳥にすまないと思った。殻はきれいに吹いた。吹かれた殻は木枯らしがどこかへ持っていった。水も易えてやった。水道の水だから大変冷たい。
 その日は一日淋しいペンの音を聞いて暮らした。その間には折々「千代千代」と云う声も聞えた。文鳥も淋しいから鳴くのではなかろうかと考えた。しかし縁側へ出て見ると、二本の留り木の間を、あちらへ飛んだりこちらへ飛んだり、絶え間なく行きつ戻りつしている。少しも不平らしい様子はなかった。








 夜は箱へ入れた。明くる朝目が覚めると、外は白い霜だ。文鳥も眼が覚めているだろうが、なかなか起きる気にならない。枕元にある新聞を手に取るさえ難儀だ。それでも煙草は一本ふかした。この一本をふかしてしまったら、起きて籠から出してやろうと思いながら、口から出る煙の行方を見つめていた。するとこの煙の中に、首をすくめた、眼を細くした、しかも心持ち眉を寄せた昔の女の顔がちょっと見えた。自分は床の上に起き直った。寝巻の上へ羽織を引っ掛けて、すぐ縁側へ出た。そうして箱の蓋(ふた)をはずして、文鳥を出した。文鳥は箱から出ながら「千代千代」と二声鳴いた。




文鳥 A JAVA SPARROW (SHORT STORY) | permalink | comments(0) | - | - | - |
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