「吾輩は猫である」

  挿画でつづる漱石の猫 I AM A CAT illustrated
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文鳥 [6]

 三重吉の説によると、馴れるにしたがって、文鳥が人の顔を見て鳴くようになるんだそうだ。現に三重吉の飼っていた文鳥は、三重吉がそばにいさえすれば、しきりに「千代千代」と鳴きつづけたそうだ。のみならず三重吉の指の先から餌を食べると云う。自分もいつか指の先で餌をやってみたいと思った。





画/つげ義春




 次の朝はまた怠けた。昔の女の顔もつい思い出さなかった。顔を洗って、食事を済まして、初めて気がついたように縁側へ出てみると、いつの間にか籠が箱の上に乗っている。文鳥はもう留り木の上を面白そうにあちらこちらと飛び移っている。そうして時々は首を伸ばして籠の外を下の方からのぞいている。その様子がなかなか無邪気である。昔、紫の帯上げでいたずらをした女は襟(えり)の長い、背のすらりとした、ちょっと首を曲げて人を見る癖があった。
 粟はまだある。水もまだある。文鳥は満足している。自分は粟も水も易(か)えずに書斎へ引っこんだ。
 昼過ぎまた縁側へ出た。食後の運動かたがた、五、六間の廻り縁を、あるきながら書見するつもりであった。ところが出てみると粟がもう七分がた尽きている。水も全く濁ってしまった。書物を縁側へ放り出しておいて、急いで餌と水を易えてやった。









 次の日もまた遅く起きた。しかも顔を洗って飯を食うまでは縁側をのぞかなかった。書斎に帰ってから、あるいは昨日のように、うちのものが籠を出しておきはせぬかと、ちょっと縁へ顔だけ出して見たら、はたして出してあった。その上、餌も水も新しくなっていた。自分はやっと安心して首を書斎に入れた。途端に文鳥は「千代千代」と鳴いた。それで引っこめた首をまた出して見た。けれども文鳥は再び鳴かなかった。けげんな顔をして硝子越しに庭の霜を眺めていた。自分はとうとう机の前に帰った。








 書斎の中では相変らずペンの音がさらさらする。書きかけた小説はだいぶんはかどった。指の先が冷たい。今朝埋(い)けた佐倉炭(さくらずみ)は白くなって、薩摩五徳(さつまごとく)に懸(か)けた鉄瓶(てつびん)がほとんど冷めている。炭取は空(から)だ。手を叩いたがちょっと台所まで聴こえない。









 立って戸を開けると、文鳥は例に似ず留り木の上にじっと留っている。よく見ると足が一本しかない。自分は炭取を縁に置いて、上からこごんで籠の中をのぞきこんだ。いくら見ても足は一本しかない。文鳥はこの華奢(きゃしゃ)な一本の細い足に総身を託して黙然(もくねん)として、籠の中に片づいている。
 自分は不思議に思った。文鳥について万事を説明した三重吉もこの事だけは抜いたとみえる。自分が炭取に炭を入れて帰った時、文鳥の足はまだ一本であった。しばらく寒い縁側に立って眺めていたが、文鳥は動く気色(けしき)もない。音を立てないで見つめていると、文鳥は丸い眼をしだいに細くしだした。おおかた眠たいのだろうと思って、そっと書斎へ入ろうとして、一歩足を動かすや否や、文鳥はまた眼を開いた。同時に真っ白な胸の中から細い足を一本出した。自分は戸を閉(た)てて火鉢へ炭をついだ。



「佐倉炭」
くぬぎにて焼きなしたる炭、いけだずみに同じ、下総の印旛、千葉、埴生の三郷に産じ、佐倉より処方に出だす(言海)


「薩摩五徳」
「五徳」は炉や火鉢の中に立て、釜や鉄瓶をかける道具。三脚または四脚の鉄製ないしは陶器製の輪。その形に、利休形笹爪・法連形(宝鈴形)・薩摩屋形の三種がある。「薩摩五徳」は薩摩屋形(三個の爪が同一でない)のこと。




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