「吾輩は猫である」

  挿画でつづる漱石の猫 I AM A CAT illustrated
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文鳥 [9 最終章]

 翌日(あくるひ)眼が覚めるや否や、すぐ例の件を思いだした。いくら当人が承知だって、そんな所へ嫁にやるのは行く末よくあるまい、まだ子供だからどこへでも行けと云われる所へ行く気になるんだろう。いったん行けばむやみに出られるものじゃない。世の中には満足しながら不幸に陥っていく者がたくさんある。などと考えて楊枝(ようじ)を使って、朝飯を済ましてまた例の件を片づけに出掛けて行った。




画/市川禎男




 帰ったのは午後三時頃である。玄関へ外套(がいとう)をかけて廊下伝いに書斎へ入るつもりで例の縁側へ出てみると、鳥籠が箱の上に出してあった。けれども文鳥は籠の底にそっくり返っていた。二本の足を硬く揃えて、胴と直線に伸ばしていた。自分は籠のわきに立って、じっと文鳥を見守った。黒い眼を眠(ねぶ)っている。まぶたの色は薄蒼(うすあお)く変わった。
 餌壺(えつぼ)には粟の殻ばかり溜まっている。啄(ついば)むべきは一粒もない。水入れは底の光るほど涸(か)れている。西へ廻った日が硝子戸を洩れて斜めに籠に落ちかかる。台に塗った漆は、三重吉の云ったごとく、いつの間にか黒味が脱けて、朱の色が出てきた。
 自分は冬の日に色づいた朱の台を眺めた。
 空(から)になった餌壺を眺めた。
 空(むな)しく橋を渡している二本の留り木を眺めた。
 そうしてその下に横たわる硬い文鳥を眺めた。
 自分はこごんで両手に鳥籠を抱えた。そうして、書斎へ持って入った。十畳の真ん中へ鳥籠をおろして、その前へかしこまって、籠の戸を開いて、大きな手を入れて、文鳥を握って見た。柔かい羽根は冷えきっている。






鈴木三重吉の住所は猫の死亡通知時のものです。




 拳(こぶし)を籠から引き出して、握った手を開けると、文鳥は静かにてのひらの上にある。自分は手を開けたまま、しばらく死んだ鳥を見つめていた。それから、そっと座布団の上におろした。そうして、はげしく手を鳴らした。
 十六になる小女(こおんな)が、はいと云って敷居際(しきいぎわ)に手をつかえる。自分はいきなり布団の上にある文鳥を握って、小女の前へ放り出した。小女はうつむいて畳を眺めたまま黙っている。自分は、餌(え)をやらないから、とうとう死んでしまったと云いながら、下女の顔をにらめつけた。下女はそれでも黙っている。
 自分は机の方へ向き直った。そうして三重吉へはがきをかいた。「うちのものが餌をやらないものだから、文鳥はとうとう死んでしまった。たのみもせぬものを籠へ入れて、しかも餌をやる義務さえ尽くさないのは残酷の至りだ」と云う文句であった。
 自分は、これを投函(だ)して来い、そうしてその鳥をそっちへ持って行けと下女に云った。下女は、どこへ持って参りますかと聞き返した。どこへでも勝手に持って行けと怒鳴りつけたら、驚いて台所の方へ持って行った。









 しばらくすると裏庭で、子供が文鳥を埋めるんだ埋めるんだと騒いでいる。庭掃除に頼んだ植木屋が、お嬢さん、ここいらが好いでしょうと云っている。自分は進まぬながら、書斎でペンを動かしていた。
 翌日はなんだか頭が重いので、十時頃になってようやく起きた。顔を洗いながら裏庭を見ると、昨日植木屋の声のしたあたりに、小さい公札(こうさつ)が、蒼(あお)い木賊(とくさ)の一株と並んで立っている。高さは木賊よりもずっと低い。庭下駄をはいて、日影の霜を踏み砕いて、近づいて見ると、公札の表には、この土手登るべからずとあった。筆子(ふでこ)の手蹟である。





長女・夏目筆子(リボンのお嬢ちゃん、ちなみに右は小宮豊隆)の夫が漱石門下の小説家・松岡譲、夏目筆子の娘が随筆家の半藤末利子、半藤末利子の夫が随筆家の半藤一利、夏目筆子の娘が比較文学者松岡陽子マックレイン、松岡陽子マックレインの夫がロバート・マックレイン、松岡陽子マックレインの孫がAlejandro Alex Soseki McClain・・・優れた血は脈々と受け継がれておる。




 午後、三重吉から返事が来た。
 文鳥はかわいそうな事をいたしましたとあるばかりで、うちのものが悪いとも残酷だともいっこう書いてなかった。









〈完〉
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