「吾輩は猫である」

  挿画でつづる漱石の猫 I AM A CAT illustrated
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【第一章 トリビア】

■『猫』は当初、第一章のみの読み切りのハズだった。
それをふまえたうえで読むと、第一章だけでキレイにまとまって、こぢんまりと締めてあるのがわかります。
■漱石が提案した最初のタイトルは『猫伝』だった。
■第一章には高浜虚子の添削が入っているので、以降の章とは多少文章の雰囲気が違う。


ホトトギス


以下、証拠となる関係者の証言&著述。
「文学談」夏目漱石 / 明治39年9月 『文芸界』座談

 『猫』ですか、あれは最初は何もあのように長く続けて書こうという考えもなし、腹案などもありませんでしたから無論一回だけで仕舞うつもり。また斯くまで世間の評判を受けようとは少しも思って居りませんでした。最初虚子君から「何か書いてくれ」と頼まれまして、あれを一回書いてやりました。丁度その頃文章会というものがあって、『猫』の原稿をその会へ出しますと、それをその席で寒川鼠骨君が朗読したそうですが、多分朗読の仕方でも旨かったのでしょう、甚くその席で喝采を博したそうです。それでいよいよ『ホトトギス』に出して見ると、一回には世間の反響は無論なかったのです。ただ小山内薫君が『七人』で新手(あらて)の読物だとか云ってほめてくれたのを記憶しています。虚子君の方では雑誌の埋草(うめぐさ)にもなるからというのでしょう、「ぜひ後を書け書け」とせがまれまして十回十一回とこう長くなりました。しかしもうそうそう引延ばしても世間があきるのみならず第一自分があきるからこの度でしまいにしました。勿論腹案もなかったことですから、どう完結を付けたらいいか分かりません。しかしどうにかしなければならんから、あの通りいい加減なところで御免をこうむりました。

『俳句の五十年』高浜虚子

 ある時私は漱石が文章でも書いて見たならば気が紛れるだろうと思いまして、文章を書いて見ることを勧めました。私は別に気にも留めずにおったのでありまして、果して出来るか、出来んかも分らんと考えておったのでありました。ところが、その日になって立寄ってみますと、非常に長い文章が出来ておりまして、頗(すこぶ)る機嫌が良くって、ぜひこれを一つ自分の前で読んでみてくれろという話でありました。文章会は時間が定まっておりまして、その時間際に漱石の所に立寄ったのでありましたが、そういわれるものですから止むを得ず私はその文章を読んでみました。ところがなかなか面白い文章であって、私等仲間の文章とすると、分量も多くそれに頗る異色のある文章でありましたから、これは面白いから、早速今日の文章会に持出して読んでみるからといって、それを携えて文章会に臨みました。私がその漱石の家で読んだ時分に、題はまだ定めてありませんでして、「猫伝」としようかという話があったのでありますが、「猫伝」というよりも、文章の初めが「吾輩は猫である。名前はまだない」という書き出しでありますから、その「吾輩は猫である」という冒頭の一句をそのまま表題にして「吾輩は猫である」という事にしたらどうかというと、漱石は、それでも結構だ、名前はどうでもいいからして、私に勝手につけてくれろ、という話でありました。それでその原稿を持って帰って、「ホトトギス」に載せます時分に、「吾輩は猫である」という表題を私が自分で書き入れまして、それを活版所に廻したのでありました。
 それからその時分は、誰の文章でも一応私が眼を通して、多少添削するという習慣でありましたからして、この『吾輩は猫である』という文章も更に読み返してみまして、無駄だと思われる箇所の文句はそれを削ったのでありました。そうしてそれを三十八年の一月号に発表しますというと、大変な反響を起しまして、非常な評判になりました。それというのも、大学の先生である夏目漱石なる者が小説を書いたという事で、その時分は大学の先生というものは、いわゆる象牙の塔に籠もっていて、なかなか小説などは書くものではないという考えがあったのでありますが、それが小説を書いたというので、著しく世人の眼を欹(そばだ)たしめたものでありました。そればかりではなく、大変世間にある文章とは類を異にしたところからして、非常な評判となったのでありました。
 それで、漱石は、ただ私が初めて文章を書いてみてはどうかと勧めた為に書いたという事が、動機となりまして、それから漱石の生活が一転化し、気分も一転化するというような傾きになってきたのでありました。それと同時に『倫敦塔』という文章も書きまして「帝国文学」の誌上に発表しました。
 それから『吾輩は猫である』が、大変好評を博したものですから、それは一年と八ヶ月続きまして、続々と続篇を書く、而(しか)もその続篇は、この第一篇よりも遙かに長いものを書いて、「ホトトギス」は殆(ほとん)どその『吾輩は猫である』の続篇で埋ってしまうというような勢いになりました。それが為に「ホトトギス」もぐんぐんと毎号部数が増して行くというような勢いでありました。


※虚子のエッセイ「漱石氏と私」だと、漱石はタイトル案として“猫伝”と“吾輩は猫である”の二つを持っていて迷っており、虚子が“吾輩”に賛成してタイトルが決まったことになっている(「講座夏目漱石 第一巻」1981 有斐閣)。
幾多のバリエーションを生んだ名タイトル決定の真相は藪の中。100年あまり前、1904年のお話です。(J・KOYAMA)
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「吾輩ハ猫デアル」上篇 自序

【注記】「吾輩ハ猫デアル」上篇に収録された「序文」ではありますが、内容的に「後書き」相当なので、上篇(第一章から第五章)のラストにこの文章を持ってきました。


「吾輩は猫である」は雑誌ホトトギスに連載した続き物である。もとより纏(まと)まった話の筋を読ませる普通の小説ではないから、どこで切って一冊としても興味の上においてさしたる影響のあろうはずがない。しかし自分の考えではもう少し書いたうえでと思っていたが、書肆(しょし/出版社)がしきりに催促をするのと、多忙で意のごとく稿を続(つ)ぐ余暇がないので、さしあたりこれだけを出版することにした。
 自分がすでに雑誌へ出したものを再び単行本の体裁として公にする以上は、これを公にするだけの価値があるという意味に解釈されるかもしれぬ。「吾輩は猫である」が、はたしてそれだけの価値があるかないかは著者の分として言うべき限りでないと思う。ただ自分の書いたものが自分の思うような体裁で世の中へ出るのは、内容の価値いかんにかかわらず、自分だけは嬉しい感じがする。自分に対してはこの事実が出版を促すに十分な動機である。
 この書を公にするについて中村不折氏は数棄の挿画(さしえ)をかいてくれた。橋口五葉氏は表紙その他の模様を意匠(いしょう/デザイン)してくれた。両君のお蔭によって文章以外に一種の趣味を添え得たるは余の深く徳とするところである。
 自分が今まで「吾輩は猫である」を草しつつあったさい、一面識もない人が時々書信または絵ハガキなどをわざわざ寄せて意外の褒辞(ほうじ/褒めたたえる言葉)を賜ったことがある。自分が書いたものがこんな見ず知らずの人から同情を受けているということを発見するのは非常に有難い。今出版の機を利用して、これらの諸君に向かって一言感謝の意を表する。
 この書は趣向もなく、構造もなく、尾頭(おかしら)の心もとなき海鼠(ナマコ)のような文章であるから、たといこの一巻で消えてなくなったところで、いっこうさしつかえはない。また実際消えてなくなるかもしれん。しかし将来忙中に閑を偸(ぬす)んで(わずかの時間をやりくりして、何かをする)硯(すずり)の塵を吹く機会があれば、再び稿を続(つ)ぐつもりである。猫が生きているあいだは――猫が丈夫でいるあいだは――猫が気が向くときは――余もまた筆を執(と)らねばならぬ。

   明治38年10月6日


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好評発売中!


漱石の第二作品集「漾虚集」巻末の「猫」単行本広告。
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大倉書店のこと[1]


「猫」の単行本を出版した版元が大倉書店と服部書店の連名になっているのは皆様ご存じの通り。
この大倉書店というのは鈴木省三「日本の出版界を築いた人びと」(1985 柏書房)によると、当時日本橋にあった日本屈指の大出版社であったという。前身は天保4年(1833)創業の錦栄堂万屋、絵草子の出版・販売を営んでいた。
一方の服部書店は銀座にあり、最初は大倉分店服部書店であった。漱石夫人の回想「漱石の思ひ出」によると、大倉書店の番頭であった服部という人から出したいという申し出があり、大倉からもぜひ頼むと言う事でこの服部氏の手によって出版されたそうだ。
連名にはこんなワケがあったんですね。

参考 小田切靖明・榊原貴教「夏目漱石の研究と書誌」(2002 ナダ出版センター)
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大倉書店のこと[2]


何故大倉書店のことが急に気になったかというと、昨日こんなチラシを見たからです。名古屋の陶磁器で有名なノリタケカンパニー、そこのミュージアムで「大倉孫兵衛の錦絵 明治の華 大倉書店出版の美人画」という企画展が開かれているんですね(2007年4月1日まで)。
この孫兵衛さん(1843-1920)はノリタケの前身、森村組の創業時に大きな貢献をした人物。20歳頃には神田に店を構えて絵草子や錦絵を出版していました。
日本からの金流出を憂い、義兄・森村市左衛門が貿易商社・森村組を創業すると絵草子屋は番頭に任せ行動を共にします。
出版業経験で育まれた美的センスが、陶磁器製造をするようになったノリタケのデザインの基礎を作った…という事らしいですね。
たぶん間違いないと思うんですが、この孫兵衛さんの興した大倉書店が今見ても優れたブックデザインの「猫」単行本発行元なんでしょう。美しい挿画の印刷には錦絵などの技術が応用されているんでしょうね。
なんか意外なところで世の中はつながっておるようです。

…と書きましたが、違っているかもしれん。ご存じの方、情報お待ちします。
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「猫」単行本に上編の記載が入ったのは


明治38年10月6日、漱石初の単行本である「吾輩ハ猫デアル」が発売されました。
第一章から第五章までをまとめたとはいえ、連載は継続中。この巻は上編に当たるのですが、その表記は入っていませんでした。でも連載終了後に出た続巻には中編・下編の表記があります。
並べたときに見てくれが良くないと思ったか、表紙を改訂した版が登場しました。橋口五葉の画も新たに描き起こされています。復刻版は初版を元にしているので、この表紙は新鮮ではないでしょうか?
小田切靖明・榊原貴教「夏目漱石の研究と書誌」(2002 ナダ出版センター)ではカバーが改訂され、上編と入ったのは増刷第九版からと推定しています。


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横田順彌「雑本展覧会」より、大町桂月の話 


横田順彌氏といえば近年はSF作家としてよりも古本道の大家、明治研究家としての顔の方が大きいかもしれない。わたくしもこの人の古本エッセイにハマったクチです。なによりホントに好きなのが伝わってくるのがイイね。
氏の「雑本展覧会」(2000 日経新聞社)という古本エッセイ集に漱石がらみの文章があり、面白いので紹介したい。ちょうど第七章に出てきた当時の批評家・随筆家、大町桂月に関する一文「漱石の猫と桂月の鼠」です。
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横田順彌「雑本展覧会」より、大町桂月の話2


「猫」の後日談やパロディ小説数あれど、「鼠日記」読んでみたいですね。

引用されている「評伝 大町桂月」は未見ですが、桂月は最初少なくとも「猫」および作者を誉めたわけではありません(第七章の雑言録を参照の事)。
作中でコミカルに桂月への返礼をした漱石ですが、知人宛の書簡では猛烈です。
特に明治39年(1906)2月13日付森田米松宛書簡では「大町なんかは僕の悪口を二度も繰り返している。人民新聞では僕が猫を書いて細君と仲が悪くなったと書いたそうだ・・・桂月なんて馬鹿だと頭から思ってる・・・まず最前の大町桂月のようなのは馬鹿の第一位に位するものだ」ってな調子。
もっとも「鼠日記」所収の「一枝の筆」が刊行される大正4(1915)年までに漱石の筆名もなお上がり、ふたりが仲良くなっていたのかも知れませんがね。
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落雲館こと郁文館中学は今

「猫」第八章で主人と戦争した君子たちの中学の名は落雲館。そのモデルは千駄木漱石邸の西裏にあった郁文館中学だというのはご存じの通りです。

当時の郁文館は校舎四棟、屋内運動場40坪、グラウンド1600坪と東京市内の中学としては運動場の広い方だったとか。浅草区森下町には分校もあり、教員総数は併せて38名。預かる生徒=君子達は940余名という大きな学校でした。
彼らは夜になると寄宿舎で四隣の迷惑になるような騒動をしたそうで、明治38年12月31日付の鈴木三重吉宛書簡には「ホトトギスを見ましたか。裏の学校から抗議でも来ればまた材料が出来て面白いと思っている。・・・今夜も盛んにやっている。この次はこれでも生け捕って(ネタにして)やりましょう。しまいには校長がなんとか言ってくればいいと思う。ケンカでもないと猫の材料が払底でいかん」と書いてます。

第八章が掲載された明治39年1月1日発行の「ホトトギス」は前年暮れには書店に並んでいたのかな。


昨年千駄木邸跡を訪ねたとき、郁文館も見てきました。現在の名称は“郁文館夢学園”。中高一貫の私立校です。
「日経ヨクヨムファイル」2007年2月号によると現在、学園の理事長は居酒屋・ワタミグループ代表取締役社長、渡邊美樹氏。学校を作る事も夢のひとつであった氏は、生徒1600名を抱えながら経営危機にあった郁文館学園(2003年当時)の改革に乗り出し成功したそうです。

ぐるりを歩いてみました。運動場の西側にある、狭い小道がいい感じ。ボールが飛び出さぬよう、高いネットが張ってあるね。

わたくしはスポーツに興味がないんで受け売りだけで書きますが、明治30年代の郁文館は野球部の黄金時代で、多くの名選手を輩出していたそうです(当時は学生野球が盛んであった)。
漱石夫人による『漱石の思い出』によると、郁文館の君子が邸内にボールを投げ込んだ事があるのは事実ですが、生け捕って家に怒鳴り込む(?)までしたのは君子ではなく漱石邸の前でたまたまボール投げをしておった根津権現近くに住むどこかの中学生だったそうな。
そのあたりの記憶がブレンドされ、八章に盛り込まれておるのだろうね。
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『吾輩ハ猫デアル』中篇 自序

【注記】「吾輩ハ猫デアル」中篇に収録された「序文」ではありますが、内容的に「後書き」相当なので、中篇(第六章から第九章)のラストにこの文章を持ってきました。


「猫」の稿を継ぐときには、たいてい初篇と同じ程な枚数に筆を擱(お)いて(書くのをやめて)、上下二冊の単行本にしようと思っていた。ところがなにかの都合でページが少し延びたので、書肆(しょし/出版社)は上中下にしたいと申し出た。その辺は営業上の関係で、著作者たる余には何等の影響もない事だから、それも善かろうと同意して、まずこれだけを中篇として発行する事にした。



 そこで序を書くときにふと思い出した事がある。余が倫敦(ロンドン)に居るとき、忘友・子規の病を慰めるため、当時彼の地(かのち)の模様を書いてはるばると二、三回長い消息(手紙)をした。無聊(ぶりょう/退屈なこと。気が晴れないこと)に苦しんでいた子規は、余の書簡を見ておおいに面白かったとみえて、『多忙の所を気の毒だが、もう一度何か書いてくれまいか』との依頼をよこした。この時子規はよほどの重体で(当時の子規は結核療養中だった)、手紙の文句もすこぶる悲惨であったから、情誼(じょうぎ/人とつきあう上での人情や誠意)上、何かしたためてやりたいとは思ったものの、こちらも遊んでいる身分ではなし、そう面白い種をあさってあるくような閑日月もなかったから、ついそのままにしているうちに子規は死んでしまった。
 筺底(きょうてい/文箱の中から)から出して見ると、その手紙にはこうある。


 僕ハモーダメニナッテシマッタ、毎日訳モナク号泣シテイルヨウナ次第ダ、ソレダカラ新聞雑誌ヘモ少シモ書カヌ。手紙ハ一切廃止。ソレダカラ御無沙汰シテマス。今夜ハフト思イツイテ特別ニ手紙ヲカク。イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常ニ面白カッタ。近来僕ヲ喜バセタモノノ随一ダ。僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガッテイタノハ君モ知ッテルダロー。ソレガ病人ニナッテシマッタノダカラ残念デタマラナイノダガ、君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ往(い)ッタヨウナ気ニナッテ愉快デタマラヌ。モシ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテルウチニ今一便ヨコシテクレヌカ(無理ナ注文ダガ)
 画ハガキモ慥(たしか)ニ受取ッタ。倫敦(ロンドン)ノ焼芋ノ味ハドンナカ聞キタイ。
 不折(猫の挿画を描くことになる中村不折)ハ今、巴里(パリ)ニ居テ、コーランノ処(イスラム寺院)へ通ッテ居ルソウジャナイカ。君ニ逢(お)ウタラ鰹節一本贈ルナドト言ウテイタガ、モーソンナモノハ食ウテシマッテアルマイ。
 虚子(高浜虚子)ハ男子ヲ挙ゲタ。僕ガ年尾トツケテヤッタ。(虚子の長男の名前を「年尾」と命名した)
 錬郷死ニ 非風死ニ 皆僕ヨリ先ニ死ンデシマッタ。
 僕ハトテモ君ニ再会スルコトハ出来ヌト思ウ。万一出来タトシテモソノ時ハ話モ出来ナクナッテルデアロー。実ハ僕ハ生キテイルノガ苦シイノダ。僕ノ日記ニハ「古白曰来」(こはく いわく きたれ)ノ四字ガ特書シテアル処ガアル。
 書キタイコトハ多イガ苦シイカラ許シテクレタマエ。
  明治三十四年十一月六日灯下ニ書ス

  東京 子規 拝
  倫敦(ロンドン)ニテ
   漱石 兄


「古白曰来」
「古白」とは、ピストル自殺をした子規の母方の従兄弟で、四歳年下の藤野古白のこと。一緒に暮らしていた母と妹が出掛けて一人きりになった時、あまりの病苦に発作的に自殺願望に襲われたが、その時に脳裏をかすめたのが、古白が「自分の所へ来い」と呼ぶ声だったという。


明治32年に子規から熊本五高の漱石に寄せられた書画(部分)。重くなっていく病状がうかがえる。

 この手紙は美濃紙へ行書で書いてある。筆力は垂死(瀕死)の病人とは思えぬ程たしかである。余はこの手紙を見るたびに、なんだか故人に対して済まぬ事をしたような気がする。『書きたいことは多いが苦しいから許してくれたまえ』とある文句は、つゆ偽りのない所だが、『書きたいことは書きたいが、忙しいから許してくれたまえ』という余の返事には少々の遁辞(とんじ/言い逃れの言葉)が入っている。憐れなる子規は、余が通信を待ち暮らしつつ、待ち暮らした甲斐もなく呼吸(いき)を引き取ったのである。
 子規はにくい男である。かつて『墨汁一滴』か何かの中に、『独乙(ドイツ)では姉崎や藤代が独乙語で演説をして大喝采を博しているのに、漱石は倫敦(ロンドン)の片田舎の下宿に燻(くすぶ)って、婆さんからいじめられている』というような事を書いた。こんな事を書くときはにくい男だが、『書きたいことは多いが、苦しいから許してくれたまえ』などと言われると気の毒でたまらない。余は子規に対してこの気の毒を晴らさないうちに、とうとう彼を殺してしまった。
 子規が生きていたら「猫」を読んで何と言うか知らぬ。あるいは、倫敦消息は読みたいが「猫」は御免(ごめん)だ、と逃げるかも分からない。しかし「猫」は余を有名にした第一の作物である。有名になった事がさほどの自慢にはならぬが、『墨汁一滴』のうちで暗(あん)に余を激励した故人に対しては、この作を地下に寄するのが、あるいは恰好(かっこう)かも知れぬ。季子は剣を墓にかけて、故人の意に酬(むく)いたと言うから、余もまた「猫」を碣頭(けっとう/墓碑)に献じて、往日の気の毒を五年後の今日に晴らそうと思う。
 子規は死ぬ時に糸瓜(へちま)の句を詠んで死んだ男である。だから世人は子規の忌日を糸瓜忌(へちまき)と称え、子規自身の事を糸瓜仏となづけて居る。余が十余年前、子規と共に俳句を作った時に

  長けれど 何の糸瓜(へちま)と さがりけり

という句をふらふらと得た事がある。糸瓜に縁があるから「猫」と共に併(あわ)せて地下に捧げる。

  どっしりと 尻を据(す)えたる 南瓜(かぼちゃ)かな

という句もその頃作ったようだ。同じく瓜という字のつく所をもってみると、南瓜も糸瓜も親類の間柄(あいだがら)だろう。親類づきあいのある南瓜の句を糸瓜仏に奉納するのに別段の不思議もないはずだ。そこでついでながらこの句も霊前に献上する事にした。子規は今どこにどうして居るか知らない。恐らくは据(す)えるべき尻がないので落ちつきをとる機会に窮しているだろう。余は未だに尻を持っている。どうせ持っているものだから、まずどっしりとおろして、そう人の思わく通り急には動かないつもりである。しかし子規は、また例の如く、尻持たぬわが身につまされて、遠くから余の事を心配するといけないから、亡友に安心をさせるため一言断っておく。

  明治三十九年十月



「よほどの重体で」
当時の子規は、結核菌が肺の病巣から血液を通じて脊椎に運ばれ発症する「脊椎カリエス」で寝たきりだった。


「季子は剣を墓にかけて、故人の意に酬いた」
【史記】『蒙求』の「掛剣」の故事
「春寒し墓に懸けたる季子の剣」


画/漱石
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