「吾輩は猫である」

  挿画でつづる漱石の猫 I AM A CAT illustrated
<< November 2018 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>

《第五》 泥棒陰士5


ラファエロ 「キリストの変容」(1518-20)

 吾輩は叙述の順序として、不時の珍客なる泥棒陰士その人を、この際諸君にご紹介するの栄誉を有する訳であるが、その前にちょっと卑見を開陳して御高慮を煩わしたい事がある。
 古代の神は全知全能と崇(あが)められている。ことに耶蘇教(ヤソ教/キリスト教)の神は二十世紀の今日までもこの全知全能の面をかぶっている。しかし俗人の考えうる全知全能は、時によると無知無能とも解釈ができる。こういうのは明らかにパラドックスである。しかるにこのパラドックスを道破(どうは/ずばりと言ってのけること)した者は天地開闢(てんちかいびゃく)以来吾輩のみであろうと考えると、自分ながらまんざらな猫でもないという虚栄心も出るから、ぜひともここにその理由を申し上げて、猫も馬鹿にできないという事を高慢なる人間諸君の脳裏に叩きこみたいと考える。



第五章 CHAP.5 | permalink | comments(0) | - | - | - |



《第五》 泥棒陰士6


ラファエロ 「システィーナのマドンナ」(1513-14)

 天地万有は神が作ったそうな。してみれば人間も神のご製作であろう。現に聖書とかいうものにはその通りと明記してあるそうだ。
 さて、この人間について、人間自身が数千年来の観察を積んで、おおいに玄妙不思議がると同時に、ますます神の全知全能を承認するように傾いた事実がある。それはほかでもない、人間もかようにうじゃうじゃいるが同じ顔をしている者は世界中に一人もいない。顔の道具はむろんきまっている。大きさもたいがいは似たり寄ったりである。換言すれば彼らは皆同じ材料から作りあげられている。同じ材料でできているにも関わらず一人も同じ結果にできあがっておらん。よくまああれだけの簡単な材料でかくまで異様な顔を思いついたものだと思うと、製造家の技量に感服せざるをえない。よほど独創的な想像力がないとこんな変化はできんのである。一代の画工が精力を消耗して変化を求めた顔でも、十二、三種以外に出る事ができんのをもって推(お)せば、人間の製造を一手で受け負った神の手際は格別なものだと驚嘆せざるをえない。とうてい人間社会において目撃しえざる体(てい)の技量であるから、これを全能的技量と言ってもさしつかえないだろう。人間はこの点においておおいに神に恐れいっているようである。



第五章 CHAP.5 | permalink | comments(0) | - | - | - |



《第五》 泥棒陰士7


ラファエロ 「テラヌオーヴァのマドンナ」(1505)

 なるほど人間の観察点から言えばもっともな恐れいり方である。しかし猫の立場から言うと同一の事実がかえって神の無能力を証明しているとも解釈ができる。もし全然無能でなくとも人間以上の能力は決してない者であると断定ができるだろうと思う。
 神が人間の数だけそれだけ多くの顔を製造したと言うが、当初から胸中に成算があってかほどの変化を示したものか、または猫も杓子も同じ顔に造ろうと思ってやりかけてみたがとうていうまくいかなくて、できるのもできるのも作り損ねてこの乱雑な状態に陥ったものか、わからんではないか。彼ら顔面の構造は神の成功の紀念とみらるると同時に失敗の痕跡とも判ぜらるるではないか。
 全能とも言えようが、無能と評したってさしつかえはない。
 彼ら人間の目は平面の上に二つ並んでいるので左右を一時に見る事ができんから、事物の半面だけしか視線内に入らんのは気の毒な次第である。立場をかえて見ればこのくらい単純な事実は彼らの社会に日夜間断なく起こりつつあるのだが、本人のぼせあがって神に呑まれているから悟りようがない。
 製作の上に変化をあらわすのが困難であるならば、その上に徹頭徹尾の模倣を示すのも同様に困難である。ラファエルに寸分違わぬ聖母の像を二枚描けと注文するのは、全然似寄らぬマドンナを双幅(そうふく)見せろと迫ると同じく、ラファエルにとっては迷惑であろう。否、同じ物を二枚描く方がかえって困難かもしれぬ。弘法大師に向かって昨日書いた通りの筆法で空海と願いますと言う方が、まるで書体をかえてと注文されるよりも苦しいかもわからん。
 人間の用うる国語は全然模倣主義で伝習するものである。彼ら人間が母から、乳母から、他人から、実用上の言語を習う時には、ただ聞いた通りを繰り返すよりほかに毛頭の野心はないのである。できるだけの能力で人真似をするのである。かように人真似から成立する国語が十年二十年とたつうち、発音に自然と変化を生じてくるのは、彼らに完全なる模倣の能力がないという事を証明している。純粋の模倣はかくのごとく至難なものである。
 従って、神が彼ら人間を区別のできぬよう、ことごとくすべて焼き印の『おかめ』のごとく作りえたならばますます神の全能を表明しうるもので、同時に今日のごとく勝手次第な顔を天日にさらさして、目まぐるしきまでに変化を生ぜしめたのはかえってその無能力を推知しうるの具ともなりうるのである。



第五章 CHAP.5 | permalink | comments(0) | - | - | - |



《第五》 泥棒陰士8




 吾輩はなんの必要があってこんな議論をしたか忘れてしまった。もとを忘却するのは人間にさえありがちの事であるから猫には当然の事さと大目に見てもらいたい。とにかく吾輩は寝室の障子をあけて敷居の上にぬっと現われた泥棒陰士を瞥見(べっけん)した時、以上の感想が自然と胸中にわき出でたのである。
 なぜわいた?――なぜという質問が出れば、今一応考え直してみなければならん。――ええと、その訳はこうである。
 吾輩の眼前に悠然とあらわれた陰士の顔を見るとその顔が――ふだん、神の製作について、その栄えを、あるいは無能の結果ではあるまいかと疑っていたのに、それを一時に打ち消すに足るほどな特徴を有していたからである。特徴とはほかではない。彼の眉目(びもく)が、わが親愛なる好男子・水島寒月君に瓜二つであるという事実である。



第五章 CHAP.5 | permalink | comments(0) | - | - | - |



《第五》 泥棒陰士9


画/村上 豊

 吾輩はむろん泥棒に多くの知己(ちき)は持たぬが、その行為の乱暴なところからふだん想像してひそかに胸中に描いていた顔はないでもない。小鼻の左右に展開した一銭銅貨くらいの目をつけたイガグリ頭にきまっていると自分で勝手にきめたのであるが、見ると考えるとは天地の相違、想像は決してたくましくするものではない。
 この陰士は背のすらりとした色の浅黒い一の字眉の、意気で立派な泥棒である。年は二十六、七歳でもあろう、それすら寒月君の写生である。神もこんな似た顔を二個製造しうる手際があるとすれば、決して無能をもって目する訳にはいかぬ。いや、実際の事を言うと、寒月君自身が気が変になって深夜に飛び出して来たのではあるまいかと、はっと思ったくらいよく似ている。ただ鼻の下に薄黒くヒゲの芽生えが植えつけてないので、さては別人だと気がついた。寒月君は苦味ばしった好男子で、活動小切手と迷亭から称せられたる、金田富子嬢を優に吸収するに足るほどな念入れの製作物である。しかしこの陰士も人相から観察すると、その婦人に対する引力上の作用において決して寒月君に一歩も譲らない。もし金田の令嬢が寒月君の目つきや口先に迷ったのなら、同等の熱度をもってこの泥棒君にも惚れこまなくては義理が悪い。義理はとにかく論理に合わない。ああいう才気のある、なんでも早わかりのする性質(たち)だから、このくらいの事は人から聞かんでもきっとわかるであろう。してみると寒月君の代わりにこの泥棒を差し出しても必ず満身の愛を捧げて琴瑟(きんしつ/むつまじい夫婦仲のたとえ)調和の実を挙げらるるに相違ない。万一寒月君が迷亭などの説法に動かされて、この千古の良縁が破れるとしても、この陰士が健在であるうちは大丈夫である。吾輩は未来の事件の発展をここまで予想して、富子嬢のためにやっと安心した。この泥棒君が天地の間に存在するのは富子嬢の生活を幸福ならしむる一大要件である。



第五章 CHAP.5 | permalink | comments(0) | - | - | - |



《第五》 泥棒陰士10


画/中村不折

 陰士は小脇に何か抱えている。見るとさっき主人が書斎へ放りこんだ古毛布(ふるケット)である。唐桟(とうざん)のはんてんに、お納戸色(ネズミ色がかった藍色)の博多の帯を尻の上にむすんで、生白い脛(すね)は膝から下むき出しのまま、今や片足をあげて畳の上へ入れる。さっきから赤い本に指を噛まれた夢を見ていた主人はこの時、寝返りをどうと打ちながら「寒月だ」と大きな声を出す。陰士は毛布(ケット)を落として、出した足を急に引っこます。障子の影に細長い向こう脛(ずね)が二本立ったままかすかに動くのが見える。主人は「うーん、むにゃむにゃ」と言いながら例の赤本を突き飛ばして、黒い腕を皮癬(ひぜん)病みのようにぼりぼりかく。その後は静まり返って、枕をはずしたなり寝てしまう。「寒月だ」と言ったのはまったく我知らずの寝言とみえる。陰士はしばらく縁側に立ったまま室内の動静をうかがっていたが、主人夫婦の熟睡しているのを見すましてまた片足を畳の上に入れる。今度は寒月だと言う声も聞こえぬ。やがて残る片足も踏みこむ。一穂(いっすい/炎・煙などを穂に見立てていう語)の春灯(しゅんとう)で豊かに照らされていた六畳の間は、陰士の影に鋭どく二分せられて柳行李(やなぎごうり)の辺から吾輩の頭の上を越えて壁のなかばが真っ黒になる。振り向いて見ると陰士の顔の影がちょうど壁の高さの三分の二の所に漠然と動いている。好男子も影だけ見ると、八つ頭の化け物のごとくまことに妙な恰好である。陰士は細君の寝顔を上からのぞきこんでみたが、なんのためかにやにやと笑った。笑い方までが寒月君の模写であるには吾輩も驚いた。


「唐桟」
紺地に浅葱(あさぎ)・赤などの縦の細縞を織り出した綿織物。江戸時代、通人が羽織・着物などに愛用。もとインドのサントメから渡来したもので、のち京都で織り出したものを和桟留、舶来物を唐桟留または唐桟といったが、現在はサントメ縞の総称。

「皮癬」
疥癬(かいせん)。疥癬虫の寄生によって起こる伝染性の皮膚病。下腹部・わきの下・内またなどに散発する赤い丘疹、指の間に多発する小水疱・水膿疱と線状の皮疹などが特徴で、非常にかゆい。



第五章 CHAP.5 | permalink | comments(0) | - | - | - |



《第五》 泥棒陰士11


画/下高原千歳

 細君の枕元には四寸角の一尺五、六寸ばかりの釘づけにした箱が大事そうに置いてある。これは肥前の国は唐津(からつ)の住人・多々良三平(たたらさんぺい)君が、先日帰省した時おみやげに持って来た山の芋である。山の芋を枕元へ飾って寝るのはあまり例のない話ではあるが、この細君は煮物に使う三盆(さんぼん/和三盆糖)を用箪笥(ようだんす)へ入れるくらい場所の適不適という観念に乏しい女であるから、細君にとれば、山の芋はおろか、タクアンが寝室にあっても平気かもしれん。しかし神ならぬ陰士はそんな女と知ろうはずがない。かくまで丁重に肌身に近く置いてある以上は大切な品物であろうと鑑定するのも無理はない。陰士はちょっと山の芋の箱を上げてみたが、その重さが陰士の予期と合してだいぶ目方がかかりそうなのですこぶる満足の体(てい)である。いよいよ山の芋を盗むなと思ったら、しかもこの好男子にして山の芋を盗むなと思ったら急におかしくなった。しかしめったに声を立てると危険であるからじっとこらえている。



第五章 CHAP.5 | permalink | comments(0) | - | - | - |



《第五》 泥棒陰士12


映画(1936) より

 やがて陰士は山の芋の箱をうやうやしく古毛布(ふるゲット)にくるみはじめた。なにかからげるものはないかとあたりを見まわす。と、幸い主人が寝る時に解きすてた縮緬(ちりめん)の兵古帯(へこおび)がある。陰士は山の芋の箱をこの帯でしっかりくくって、苦もなく背中へしょう。あまり女が好く体裁ではない。それから子供のちゃんちゃんを二枚、主人のメリヤスの股引(ももひき)の中へ押しこむと、股のあたりが丸く膨れて青大将がカエルを飲んだような――あるいは青大将の臨月(りんげつ)と言う方がよく形容しうるかもしれん。とにかく変な恰好になった。嘘だと思うなら試しにやってみるがよろしい。陰士はメリヤスをぐるぐる首ったまへまきつけた。その次はどうするかと思うと主人の紬(つむぎ)の上着を大風呂敷のようにひろげて、これに細君の帯と主人の羽織と繻絆(じゅばん)とその他あらゆる雑物をきれいに畳んでくるみこむ。その熟練と器用なやり口にもちょっと感心した。それから細君の帯揚げとしごき(腰ひも)とをつぎ合わせてこの包みをくくって片手にさげる。



第五章 CHAP.5 | permalink | comments(0) | - | - | - |



《第五》 泥棒陰士13



 まだちょうだいするものは無いかなとあたりを見まわしていたが、主人の頭の先に朝日(煙草のブランド名)の袋があるのを見つけて、ちょっと袂(たもと)へ投げこむ。またその袋の中から一本出してランプにかざして火をつける。うまそうに深く吸って吐き出した煙が、乳色のホヤ(ランプの火をおおうガラス製の筒)をめぐってまだ消えぬ間に、陰士の足音は縁側を次第に遠のいて聞こえなくなった。主人夫婦は依然として熟睡している。人間も存外うかつなものである。
 吾輩はまた、今しばらくの休養を要する。のべつにしゃべっていては身体が続かない。ぐっと寝こんで目が覚めた時は弥生の空が朗らかに晴れ渡って、勝手口に主人夫婦が巡査と対談をしている時であった。



第五章 CHAP.5 | permalink | comments(0) | - | - | - |



《第五》 盗難品は


画/近藤浩一路

「それでは、ここから入って寝室の方へまわったんですな。あなた方は睡眠中でいっこう気がつかなかったのですな」
「ええ」と主人は少しきまりが悪そうである。
「それで盗難にかかったのは何時頃ですか」と巡査は無理な事を聞く。時間がわかるくらいならなにも盗まれる必要はないのである。それに気がつかぬ主人夫婦はしきりにこの質問に対して相談をしている。
「何時頃かな」
「そうですね」と細君は考える。考えればわかると思っているらしい。
「あなたは夕べ何時にお休みになったんですか」
「俺の寝たのは午前より後だ」
「ええ、私の伏せったのは、あなたより前です」
「目が覚めたのは何時だったかな」
「七時半でしたろう」
「すると盗賊の入ったのは、何時頃になるかな」
「なんでも夜中でしょう」
「夜中はわかりきっているが、何時頃かというんだ」
「たしかなところはよく考えてみないとわかりませんわ」と細君はまだ考えるつもりでいる。
 巡査はただ形式的に聞いたのであるから、いつ入ったところがいっこう痛痒(つうよう)を感じないのである。嘘でもなんでも、いい加減な事を答えてくれればよいと思っているのに、主人夫婦が要領を得ない問答をしているものだから少々焦(じ)れったくなったとみえて
「それじゃ盗難の時刻は不明なんですな」と言うと、主人は例のごとき調子で「まあ、そうですな」と答える。



第五章 CHAP.5 | permalink | comments(0) | - | - | - |




RECENT COMMENTS
MOBILE
qrcode
PROFILE