「吾輩は猫である」

  挿画でつづる漱石の猫 I AM A CAT illustrated
<< October 2018 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>

《第六》 迷亭のパナマ帽2


画/木魚=浅井忠 

「君、大丈夫かい」と主人さえ懸念(けねん)らしい顔をする。
 細君はむろんの事、心配そうに「せっかくみごとな帽子をもし壊しでもしちゃあ大変ですから、もういい加減になすったらようござんしょう」と注意をする。
 得意なのは持ち主だけで「ところが壊れないから妙でしょう」と、くちゃくちゃになったのを尻の下から取り出してそのまま頭へのせると、不思議な事には、頭の恰好にたちまち回復する。
「実に丈夫な帽子です事ねえ、どうしたんでしょう」と細君がいよいよ感心すると「なに、どうもしたんじゃありません。元からこういう帽子なんです」と迷亭は帽子をかぶったまま細君に返事をしている。
「あなたも、あんな帽子をお買いになったら、いいでしょう」としばらくして細君は主人に勧めかけた。
「だって苦沙弥君は立派な麦わらの奴を持ってるじゃありませんか」
「ところがあなた、せんだって子供があれを踏みつぶしてしまいまして」
「おやおや、そりゃ惜しい事をしましたね」
「だから今度はあなたのような丈夫できれいなのを買ったらよかろうと思いますんで」と細君はパナマの値段を知らないものだから「これになさいよ、ねえ、あなた」としきりに主人に勧告している。



第六章 CHAP.6 | permalink | comments(0) | - | - | - |



《第六》 迷亭の十四徳鋏


画/司 修

 迷亭君は今度は右の袂(たもと)の中から赤いケース入りのハサミを取り出して細君に見せる。
「奥さん、帽子はそのくらいにしてこのハサミをご覧なさい。これがまたすこぶる重宝な奴で、これで十四通りに使えるんです」
 このハサミが出ないと主人は細君のためにパナマ責めになるところであったが、幸いに細君が女として持って生まれた好奇心のために、この厄運(やくうん)を免かれたのは迷亭の機転と言わんよりむしろ僥倖(ぎょうこう)のしあわせだと吾輩は看破した。
「そのハサミがどうして十四通りに使えます」と聞くや否や、迷亭君は大得意な調子で「今一々説明しますから聞いていらっしゃい。いいですか。ここに三日月形の欠け目がありましょう、ここへ葉巻を入れてぷつりと口を切るんです。それからこの根にちょっと細工がありましょう、これで針金をぽつぽつやりますね。次には平たくして紙の上へ横に置くと定規の用をする。また刃の裏には度盛(どもり)がしてあるからものさしの代用もできる。こちらの表にはヤスリがついている。これで爪を磨(す)りまさあ。ようがすか。この先を螺旋鋲(らせんびょう)の頭へ刺しこんでぎりぎりまわすとねじ回しにも使える。うんと突きこんでこじ開けるとたいていの釘づけの箱なんざあ苦もなくふたがとれる。まった、こちらの刃の先は錐(きり)にできている。ここんとこは書き損いの字を削る場所で、ばらばらに離すとナイフとなる。一番しまいに――さあ奥さん、この一番しまいが大変おもしろいんです、ここにハエの目玉くらいな大きさの球がありましょう、ちょっとのぞいてご覧なさい」



第六章 CHAP.6 | permalink | comments(0) | - | - | - |



《第六》 迷亭の十四徳鋏2


画/山本芳翠 「裸婦」

「いやですわ。またきっと馬鹿になさるんだから」
「そう信用がなくっちゃ困ったね。だが欺(だま)されたと思って、ちょいとのぞいてご覧なさいな。え? イヤですか。ちょっとでいいから」とハサミを細君に渡す。細君はおぼつかなげにハサミを取りあげて、例のハエの目玉のとこへ自分の目玉をつけてしきりにねらいをつけている。
「どうです」
「なんだか真っ黒ですわ」
「真っ黒じゃいけませんね。も少し障子の方へ向いて、そう、ハサミを寝かさずに――そうそう、それなら見えるでしょう」
「おやまあ、写真ですねえ。どうしてこんな小さな写真を張りつけたんでしょう」
「そこがおもしろいところでさあ」と細君と迷亭はしきりに問答をしている。
 最前から黙っていた主人は、この時、急に写真が見たくなったものとみえて「おい、俺にもちょっとみせろ」と言うと、細君はハサミを顔へ押しつけたまま「実にきれいです事。裸体の美人ですね」と言ってなかなか離さない。
「おいちょっと。お見せと言うのに」
「まあ、待っていらっしゃいよ。美しい髪ですね。腰までありますよ。少し仰向いて恐ろしい背の高い女だ事。しかし美人ですね」
「おい、お見せと言ったら、たいていにして見せるがいい」と主人はおおいに急(せ)きこんで細君に食ってかかる。
「へえ、お待ちどうさま。たんとご覧遊ばせ」と細君がハサミを主人に渡す時に、勝手からおさんがお客さまのおあつらえが参りましたと、二個のザル蕎麦を座敷へ持って来る。


※美人の裸体写真が登場したので少し述べておくと、そういう写真は日露戦争の陣中で“弾丸除け”などと称され大流行したそうである。詳しくは下川耿史「日本エロ写真史」(ちくま文庫)をお読みいただきたい。でもそういう写真を毛嫌いせず、むしろ嬉々として見たがるなんざぁ細君はさばけた方ですな。(J・KOYAMA)

第六章 CHAP.6 | permalink | comments(0) | - | - | - |



《第六》 自弁のご馳走



「奥さん、これが僕の自弁の御馳走ですよ。ちょっとごめんこうむって、ここでぱくつく事にいたしますから」と丁寧にお辞儀をする。真面目なようなふざけたような動作だから細君も応対に窮したとみえて「さあ、どうぞ」と軽く返事をしたぎり拝見している。
 主人はようやく写真から目を放して「君、この暑いのに蕎麦は毒だぜ」と言った。
「なあに大丈夫。好きなものはめったにあたるもんじゃない」と、せいろのふたをとる。「打ちたてはありがたいな。蕎麦の延びたのと、人間の間が抜けたのは、由来たのもしくないもんだよ」と薬味をツユの中へ入れてむちゃくちゃにかきまわす。
「君、そんなにワサビを入れると辛いぜ」と主人は心配そうに注意した。
「蕎麦はツユとワサビで食うもんだあね。君は蕎麦が嫌いなんだろう」
「僕はうどんが好きだ」
「うどんは馬子(まご/馬をひいて人や荷物を運ぶことを職業とした人)が食うもんだ。蕎麦の味を解しない人ほど気の毒な事はない」と言いながら杉箸(すぎばし)をむざと突きこんで、できるだけ多くの分量を二寸ばかりの高さにしゃくい上げた。



第六章 CHAP.6 | permalink | comments(0) | - | - | - |



《第六》 こいつは長いな


映画(1936) より

「奥さん蕎麦を食うにもいろいろ流儀がありますがね。初心の者に限って、むやみにツユをつけて、そうして口の内でくちゃくちゃやっていますね。あれじゃ蕎麦の味はないですよ。なんでもこう、ひとしゃくいに引っ掛けてね」と言いつつ箸を上げると、長い奴が勢揃いをして一尺ばかり空中につるし上げられる。迷亭先生、もうよかろうと思って下を見ると、まだ十二、三本の尾がせいろの底を離れないで、すだれの上に纏綿(てんめん)している。「こいつは長いな、どうです奥さん、この長さ加減は」と、また奥さんに相の手を要求する。
 奥さんは「長いものでございますね」と、さも感心したらしい返事をする。
「この長い奴へツユを三分の一つけて、一口に飲んでしまうんだね。噛んじゃいけない。噛んじゃ蕎麦の味がなくなる。つるつるとのどをすべりこむところがねうちだよ」と思い切って箸を高く上げると、蕎麦はようやくの事で地を離れた。



第六章 CHAP.6 | permalink | comments(0) | - | - | - |



《第六》 つるつるちゅう


画/吉原正巳

 左手(ゆんで)に受ける茶碗の中へ、箸を少しずつ落として、しっぽの先からだんだんに浸すと、アルキメデスの原理によって、蕎麦の浸った分量だけツユの嵩(かさ)が増してくる。ところが茶碗の中には元からツユが八分目入っているから、迷亭の箸にかかった蕎麦の四半分も浸らない先に、茶碗はツユで一杯になってしまった。迷亭の箸は茶碗を去る五寸の上に至ってぴたりと留まったきりしばらく動かない。動かないのも無理はない。少しでもおろせばツユがこぼれるばかりである。迷亭もここに至って少し躊躇(ちゅうちょ)の体(てい)であったが、たちまち脱兎(だっと)の勢いをもって、口を箸の方へ持って行ったなと思う間もなくつるつるちゅうと音がして、のど笛が一、二度上下へ無理に動いたら箸の先の蕎麦は消えてなくなっておった。見ると迷亭君の両目から涙のようなものが一、二滴、目尻から頬へ流れ出した。ワサビが利いたものか、飲みこむのに骨が折れたものか、これはいまだに判然しない。
「感心だなあ。よくそんなに一どきに飲みこめたものだ」と主人が敬服すると「おみごとです事ねえ」と細君も迷亭の手際を激賞した。迷亭はなんにも言わないで箸を置いて、胸を二、三度たたいたが「奥さん、ザルはたいてい三口半か四口で食うんですね。それより手数をかけちゃうまく食えませんよ」とハンカチで口を拭いてちょっと一息入れている。



第六章 CHAP.6 | permalink | comments(0) | - | - | - |



《第六》 寒月の博士論文


画/村上豊

 ところへ寒月君が、どういう了見(りょうけん)か、この暑いのにご苦労にも冬帽をかぶって両足をホコリだらけにしてやってくる。
「いや、好男子のご入来だが、食いかけたものだからちょっと失敬しますよ」と迷亭君は衆人環座(しゅうじんかんざ)のうちにあって臆面もなく残ったせいろをたいらげる。今度はさっきのように目覚ましい食い方もしなかった代わりに、ハンカチを使って中途で息を入れるという不体裁もなく、せいろ二つを安々とやってのけたのは結構だった。
「寒月君、博士論文はもう脱稿するのかね」と主人が聞くと、迷亭もその後から「金田令嬢がお待ちかねだから早々呈出したまえ」と言う。
 寒月君は例のごとく薄気味の悪い笑いをもらして「罪ですからなるべく早く出して安心させてやりたいのですが、なにしろ問題が問題で、よほど労力のいる研究を要するのですから」と本気の沙汰とも思われない事を本気の沙汰らしく言う。
「そうさ。問題が問題だから、そう鼻の言う通りにもならないね。もっともあの鼻なら十分鼻息をうかがうだけの価値はあるがね」と迷亭も寒月流な挨拶をする。
 比較的に真面目なのは主人である。「君の論文の問題はなんとか言ったっけな」
「『カエルの目玉の電動作用に対する紫外光線の影響』というのです」


※寒月のモデルとされる寺田寅彦のエッセイ集「柿の種」(岩波文庫)巻末、池内了の解説によると寺田自身も墨流し、金平糖、椿の花の落下、ガラスの割れ目など日常の中の物理現象に注目し続け研究した。これらは“役に立たない”“趣味の”“日本的”という形容詞付きで非難されたというが、本人は科学とはそのようなものだと見定めていたという節があるらしい。
「自然界と人間との間の関係には、まだわれわれの夢にも知らないようなものが、いくらでもあるのではないか」 (J・KOYAMA)


第六章 CHAP.6 | permalink | comments(0) | - | - | - |



《第六》 珠作りの博士


映画(1975) より

「そりゃ奇だね。さすがは寒月先生だ、カエルの目玉はふるってるよ。どうだろう、苦沙弥君。論文脱稿前にその問題だけでも金田家へ報知しておいては」
 主人は迷亭の言う事には取り合わないで「君、そんな事が骨の折れる研究かね」と寒月君に聞く。
「ええ、なかなか複雑な問題です。第一、カエルの目玉のレンズの構造がそんな簡単なものでありませんからね。それでいろいろ実験もしなくちゃなりませんが、まず丸いガラスの球をこしらえてそれからやろうと思っています」
「ガラスの球なんかガラス屋へ行けば訳ないじゃないか」
「どうして――どうして」と寒月先生、少々反り身になる。「元来、円とか直線とかいうのは幾何学的のもので、あの定義に合ったような理想的な円や直線は現実世界にはないもんです」
「ないもんなら、よしたらよかろう」と迷亭が口を出す。
「それでまず、実験上さしつかえないくらいな球を作ってみようと思いましてね。せんだってからやり始めたのです」
「できたかい」と主人が訳のないようにきく。
「できるものですか」と寒月君が言ったが、これでは少々矛盾だと気がついたとみえて「どうもむずかしいです。だんだん磨(す)って、少しこっち側の半径が長過ぎるからと思ってそっちを心持ち落とすと、さあ大変、今度は向こう側が長くなる。そいつを骨を折ってようやく磨(す)りつぶしたかと思うと、全体の形がいびつになるんです。やっとの思いでこのいびつを取るとまた直径に狂いができます。はじめはリンゴほどな大きさのものがだんだん小さくなってイチゴほどになります。それでも根気よくやっていると大豆ほどになります。大豆ほどになってもまだ完全な円はできませんよ。私もずいぶん熱心に磨りましたが――この正月からガラス玉を大小六個磨りつぶしましたよ」と嘘だか本当だか見当のつかぬところを喋々(ちょうちょう)と述べる。



第六章 CHAP.6 | permalink | comments(0) | - | - | - |



《第六》 珠作りの博士2


映画(1975) より

「どこでそんなに磨っているんだい」
「やっぱり学校の実験室です。朝磨り始めて、昼飯のときちょっと休んで、それから暗くなるまで磨るんですが、なかなか楽じゃありません」
「それじゃ君が近頃忙しい忙しいと言って、毎日日曜でも学校へ行くのはその珠を磨りに行くんだね」
「まったく目下のところは朝から晩まで珠ばかり磨っています」
「珠作りの博士となって入りこみしは――と言うところだね。しかしその熱心を聞かせたら、いかな鼻でも少しはありがたがるだろう。実は先日、僕がある用事があって図書館へ行って帰りに門を出ようとしたら、偶然老梅(ろうばい)君に出逢ったのさ。あの男が卒業後図書館に足が向くとはよほど不思議な事だと思って『感心に勉強するね』と言ったら先生妙な顔をして、『なに、本を読みに来たんじゃない。今、門前を通りかかったらちょっと小用がしたくなったから拝借に立ち寄ったんだ』と言ったんで大笑いをしたが、老梅君と君とは反対の好例として新撰蒙求(しんせんもうぎゅう)にぜひ入れたいよ」と迷亭君、例のごとく長たらしい注釈をつける。


「新撰蒙求」
「蒙求」は、古典の中から有名な人物の類似する言行2つずつを配して四字句の韻語で記した初学者用の教科書。そのような類の新しい書物という意味で「新撰」の文字をつけたもの。



第六章 CHAP.6 | permalink | comments(0) | - | - | - |



《第六》 金田家は大磯へ



 主人は少し真面目になって「君、そう毎日毎日珠ばかり磨ってるのもよかろうが、元来いつ頃でき上がるつもりかね」と聞く。
「まあ、この様子じゃ十年くらいかかりそうです」と寒月君は主人よりのんきに見受けられる。
「十年じゃ――もう少し早く磨り上げたらよかろう」
「十年じゃ早い方です、事によると二十年くらいかかります」
「そいつは大変だ。それじゃ容易に博士にゃなれないじゃないか」
「ええ。一日も早くなって安心さしてやりたいのですが、とにかく珠を磨り上げなくっちゃ肝心の実験ができませんから……」
 寒月君はちょっと句を切って「なに、そんなにご心配には及びませんよ。金田でも私の珠ばかり磨ってる事はよく承知しています。実は二、三日前行った時にもよく事情を話して来ました」と、したり顔に述べ立てる。
 すると今まで三人の談話をわからぬながら傾聴していた細君が「それでも金田さんは家族中残らず、先月から大磯へ行っていらっしゃるじゃありませんか」と不審そうに尋ねる。



第六章 CHAP.6 | permalink | comments(0) | - | - | - |




RECENT COMMENTS
MOBILE
qrcode
PROFILE