「吾輩は猫である」

  挿画でつづる漱石の猫 I AM A CAT illustrated
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《第七》 蟷螂狩り



 新式のうちにはなかなか興味の深いのがある。
 第一に蟷螂(とうろう/カマキリのこと)狩り。――蟷螂狩りはネズミ狩りほどの大運動でない代わりにそれほどの危険がない。夏のなかばから秋のはじめへかけてやる遊戯としてはもっとも上々のものだ。
 その方法を言うと、まず庭へ出て一匹のカマキリをさがし出す。時候がいいと一匹や二匹見つけだすのは造作もない。さて、見つけだしたカマキリ君のそばへ、はっと風を切って駆けて行く。すると、すわこそという身構えをして鎌首をふり上げる。カマキリでもなかなか健気なもので、相手の力量を知らんうちは抵抗するつもりでいるからおもしろい。



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《第七》 蟷螂狩り2



 振り上げた鎌首を右の前足でちょっと参る。振り上げた首は軟らかいからぐにゃり横へ曲がる。この時のカマキリ君の表情がすこぶる興味を添える。おや、という思い入れが十分ある。ところを一足飛びに君の後ろへまわって、今度は背面から君の羽根を軽く引っかく。あの羽根は平生大事に畳んであるが、引っかき方が激しいとぱっと乱れて、中から吉野紙(極めて薄く漉かれた和紙)のような薄色の下着があらわれる。君は夏でもご苦労千万に二枚重ねでおつにきまっている。この時、君の長い首は必ず後ろに向き直る。ある時は向かってくるが、たいがいの場合には首だけぬっと立てて立っている。こっちから手出しをするのを待ち構えて見える。



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《第七》 蟷螂狩り3


画/橋口五葉

 先方がいつまでもこの態度でいては運動にならんから、あまり長くなるとまたちょいと一本参る。これだけ参ると眼識のあるカマキリなら必ず逃げ出す。それをがむしゃらに向かってくるのはよほど無教育な野蛮的カマキリである。もし相手がこの野蛮な振る舞いをやると、向かって来たところをねらいすまして、いやと言うほどはりつけてやる。たいがいは二、三尺飛ばされるものである。しかし敵がおとなしく背面に前進すると、こっちは気の毒だから庭の立木を二、三度飛ぶ鳥のごとくまわってくる。カマキリ君はまだ五、六寸しか逃げ延びておらん。もう吾輩の力量を知ったから手向かいをする勇気はない。ただ右往左往へ逃げ惑うのみである。しかし吾輩も右往左往へ追っかけるから、君はしまいには苦しがって羽根をふるって一大活躍を試みる事がある。元来カマキリの羽根は彼の首と調和して、すこぶる細長くできあがったものだが、聞いて見るとまったく装飾用だそうで、人間の英語、フランス語、ドイツ語のごとくちっとも実用にはならん。だから無用の長物を利用して一大活躍を試みたところで、吾輩に対してあまり功能のありよう訳がない。名前は活躍だが事実は地面の上を引きずって歩くと言うに過ぎん。



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《第七》 蟷螂狩り4


画/北川健次

 こうなると少々気の毒な感はあるが運動のためだからしかたがない。ごめんこうむってたちまち前面へ駆け抜ける。君は惰性で急回転ができないから、やはりやむを得ず前進してくる。その鼻をなぐりつける。この時、カマキリ君は必ず羽根を広げたままたおれる。その上をうんと前足でおさえて少しく休息する。それからまた放す。放しておいてまたおさえる。七擒七縦(しちきんしちしょう/敵を七度放して七度捕らえること)孔明の軍略で攻めつける。約三十分この順序を繰り返して、身動きもできなくなったところを見すまして、ちょっと口へくわえて振ってみる。それからまた吐き出す。今度は地面の上へ寝たぎり動かないから、こっちの手で突っついて、その勢いで飛び上がるところをまたおさえつける。これもいやになってから、最後の手段としてむしゃむしゃ食ってしまう。ついでだからカマキリを食った事のない人に話しておくが、カマキリはあまり旨い物ではない。そうして滋養分も存外少ないようである。


「七擒七縦」
諸葛孔明が孟獲を翻弄した故事から。



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《第七》 蝉取り



 蟷螂狩り(とうろうがり/カマキリ狩り)に次いで、セミ取りという運動をやる。単にセミと言ったところが同じ物ばかりではない。人間にも、油野郎、みんみん野郎、おしいつくつく野郎があるごとく、セミにも、アブラゼミ、ミンミン、オシイツクツクがある。
 アブラゼミはしつこくていかん。ミンミンは横風で困る。ただ取っておもしろいのはオシイツクツクである。これは夏の末にならないと出て来ない。八つ口(女性または子供用の着物の脇あき。袖付けの下の脇縫いを、縫い合わせずにあけてある部分。「身八つ口」とも言う)のほころびから、秋風が断わりなしに肌を撫でてハックショ風邪を引いたという頃、さかんに尾をふり立てて鳴く。よく鳴く奴で、吾輩から見ると鳴くのと猫に取られるよりほかに天職がないと思われるくらいだ。秋の初めはこいつを取る。これを称してセミ取り運動と言う。



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《第七》 蝉取り2



 ちょっと諸君に話しておくが、いやしくもセミと名のつく以上は地面の上に転がってはおらん。地面の上に落ちているものには必ずアリがついている。吾輩の取るのはこのアリの領分に寝転んでいる奴ではない。高い木の枝にとまってオシイツクツクと鳴いている連中を捕えるのである。
 これもついでだから博学なる人間に聞きたいが、あれはオシイツクツクと鳴くのか、ツクツクオシイと鳴くのか、その解釈次第によってはセミの研究上少なからざる関係があると思う。人間の猫に優るところはこんなところに存するので、人間のみずから誇る点もまたかような点にあるのだから、今即答ができないならよく考えておいたらよかろう。もっともセミ取り運動上はどっちにしてもさしつかえはない。ただ声をしるべに木をのぼって行って、先方が夢中になって鳴いているところをうんと捕えるばかりだ。
 これはもっとも簡略な運動に見えてなかなか骨の折れる運動である。吾輩は四本の足を有しているから大地を行く事においてはあえて他の動物には劣るとは思わない。少なくとも二本と四本の数学的知識から判断してみて、人間には負けないつもりである。しかし木登りに至ってはだいぶ吾輩より巧者な奴がいる。本職の猿は別物として、猿の末孫(ばっそん)たる人間にもなかなか侮るべからざる手合いがいる。元来が引力に逆らっての無理な事業だから、できなくても別段の恥辱(ちじょく)とは思わんけれども、セミ取り運動上には少なからざる不便を与える。幸いに爪という利器があるのでどうかこうか登りはするものの、はたで見るほど楽ではござらん。のみならずセミは飛ぶものである。カマキリ君と違って一たび飛んでしまったが最後、せっかくの木登りも、木登らずとなんの選ぶところなしという悲運に際会する事がないとも限らん。



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《第七》 蝉取り3


画/橋口五葉

 最後に時々セミから小便をかけられる危険がある。あの小便がややともすると目をねらってしょぐってくる(「ひょぐってくる」の訛り。「ひょぐる」は、ほとばしらす。放尿する)ようだ。逃げるのはしかたがないから、どうか小便ばかりは垂れんようにいたしたい。飛ぶまぎわに溺(いば)り(尿)をつかまつるのはいったいどういう心理的状態の生理的器械に及ぼす影響だろう。やはりせつなさのあまりかしらん。あるいは敵の不意に出でて、ちょっと逃げ出す余裕を作るための方便かしらん。そうするとイカの墨を吐き、ベランメーの彫り物を見せ、主人がラテン語を弄する類(たぐい)と同じ綱目(こうもく)に入るべき事項となる。これもセミ学上、ゆるがせにすべからざる問題である。十分研究すればこれだけでたしかに博士論文の価値はある。それは余事だから、そのくらいにしてまた本題に帰る。



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《第七》 蝉取り4



 セミのもっとも集注するのは――集注がおかしければ集合だが、集合は陳腐(ちんぷ)だからやはり集注にする。――セミのもっとも集注するのは青桐である。漢名を梧桐(ごとう)と号するそうだ。ところがこの青桐は葉が非常に多い。しかもその葉は皆うちわくらいな大きさであるから、彼らが生い重なると枝がまるで見えないくらい茂っている。これがはなはだセミ取り運動の妨害になる。声はすれども姿は見えずという俗謡(ぞくよう)はとくに吾輩のために作ったものではなかろうかと怪しまれるくらいである。吾輩はしかたがないからただ声をしるべに行く。下から一間(いっけん/約180cm)ばかりのところで梧桐は注文通り二叉(ふたまた)になっているから、ここで一休みして葉裏からセミの所在地を探偵する。もっともここまで来るうちに、がさがさと音を立てて飛び出す気早な連中がいる。一羽飛ぶともういけない。真似をする点においてセミは人間に劣らぬくらい馬鹿である。後から続々飛び出す。ようよう二叉(ふたまた)に到着する時分には満樹、寂(せき)として片声(へんせい)をとどめざる事がある。かつてここまで登って来て、どこをどう見まわしても、耳をどう振ってもセミ気(け)がないので、出直すのも面倒だからしばらく休息しようと叉(また)の上に陣取って第二の機会を待ち合わせていたら、いつの間にか眠くなって、つい黒甜郷裡(こくてんきょうり/昼寝の世界の中)に遊んだ。おやと思って目が覚めたら、二叉の黒甜郷裡(こくてんきょうり)から庭の敷石の上へドタリと落ちていた。


「声はすれども姿は見えずという俗謡」
【山家鳥虫歌】八一
和泉国の民謡として「声はすれども姿は見えぬ、君は深山のきりぎりす」とある。類歌は民謡として各地に残存した。



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《第七》 蝉取り5


画/橋口五葉

 しかしたいがいは登るたびに一つは取って来る。ただ興味の薄い事には、樹の上で口にくわえてしまわなくてはならん。だから下へ持って来て吐き出す時はおおかた死んでいる。いくらじゃらしても引っかいても確然たる手応えがない。セミ取りの妙味は、じっと忍んで行ってオシイ君が一生懸命にしっぽを延ばしたり縮ましたりしているところを、わっと前足でおさえる時にある。この時ツクツク君は悲鳴をあげて、薄い透明な羽根を縦横無尽に振るう。その早い事、美事なる事は言語道断、実にセミ世界の一偉観である。余はツクツク君をおさえるたびにいつでもツクツク君に請求してこの美術的演芸を見せてもらう。それがいやになるとごめんをこうむって口の内へ頬ばってしまう。セミによると口の内へ入ってまで演芸をつづけているのがある。



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《第七》 松すべり



 セミ取りの次にやる運動は松すべりである。これは長く書く必要もないからちょっと述べておく。
 松すべりというと松をすべるように思うかもしれんが、そうではない。やはり木登りの一種である。ただ、セミ取りはセミを取るために登り、松すべりは登る事を目的として登る。これが両者の差である。
 元来松は常磐(ときわ)にて最明寺(さいみょうじ/北条時頼ゆかりの寺)の御馳走をしてから以来、今日(こんにち)に至るまで、いやにごつごつしている。従って松の幹ほどすべらないものはない。手がかりのいいものはない。足がかりのいいものはない。――換言すれば爪がかりのいいものはない。
 その爪がかりのいい幹へ一気呵成(いっきかせい)に駆け上がる。駆け上がっておいて駆け下がる。駆け下がるには二法ある。
 ひとつは、さかさになって頭を地面へ向けて下りてくる。
 ひとつは、のぼったままの姿勢をくずさずに尾を下にして降りる。
 人間に問うが、どっちがむずかしいか知ってるか。


松は常磐にて最明寺の御馳走をして」
謡曲「鉢木」より。
「松はもとより常磐にて、薪となるは梅桜、切りくべて今ぞみ垣守り」とあるのによる。
諸国遍歴の北条時頼が、雪中、佐野源左衛門常世の家に宿を乞うた際、落ちぶれた生活をしていて火にくべるべき薪すらなかった佐野源左衛門常世は、秘蔵の梅・松・桜の鉢の木を焚いてもてなした、という話が伝えられている。

このお話は、ラストでかなり演出的に、北条時頼が常世の誠意に報いたことになっていて、いかにも日本人が好きそうななかなかいいお話です。ご興味がわかれましたら、リンク先をご覧になってみるのもよろしいかと。


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