「吾輩は猫である」

  挿画でつづる漱石の猫 I AM A CAT illustrated
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《第八》 「からかう」という事


画/岩崎年勝

 全体、人をからかうのはおもしろいものである。吾輩のような猫ですら、時々は当家の令嬢をからかって遊ぶくらいだから、落雲館の君子が気の利かない苦沙弥先生をからかうのはしごくもっともなところで、これに不平なのは恐らくからかわれる当人だけであろう。



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《第八》 「からかう」という事2



 からかうという心理を解剖してみると二つの要素がある。
 第一、からかわれる当人が平気ですましていてはならん。
 第二、からかう者が勢力において人数において、相手より強くなくてはいかん。
 この間、主人が動物園から帰って来てしきりに感心して話した事がある。聞いてみると、ラクダと小犬の喧嘩を見たのだそうだ。小犬がラクダの周囲を疾風のごとく回転して吠えたてると、ラクダはなんの気もつかずに、依然として背中へコブをこしらえて突っ立ったままであるそうだ。いくら吠えても狂っても相手にせんので、しまいには犬も愛想をつかしてやめる。実にラクダは無神経だと笑っていたが、それがこの場合の適例である。いくらからかうものが上手でも相手がラクダときては成立しない。さればと言って獅子(しし)や虎(とら)のように先方が強過ぎてもものにならん。からかいかけるや否や八つ裂きにされてしまう。からかうと歯をむき出して怒る。怒る事は怒るが、こっちをどうする事もできない、という安心のある時に愉快は非常に多いものである。



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《第八》 「からかう」という事3



 なぜこんな事がおもしろいというとその理由はいろいろある。まず、ひまつぶしに適している。退屈な時にはヒゲの数さえ勘定してみたくなるものだ。昔、獄に投ぜられた囚人の一人は無聊(ぶりょう/退屈)のあまり、房(へや)の壁に三角形を重ねて書いてその日をくらしたという話がある。世の中に退屈ほど我慢のできにくいものはない。なにか活気を刺激する事件がないと生きているのがつらいものだ。からかうというのもつまりこの刺激を作って遊ぶ一種の娯楽である。ただし、多少先方を怒らせるか、じらせるか、弱らせるかしなくては刺激にならんから、昔からからかうという娯楽にふけるものは、人の気を知らない馬鹿大名のような退屈の多いもの、もしくは自分のなぐさみ以外は考うるに暇(いとま)なきほど頭の発達が幼稚で、しかも活気の使い道に窮する少年かに限っている。


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《第八》 「からかう」という事4




 次には、自己の優勢な事を実地に証明する者にはもっとも簡便な方法である。人を殺したり、人を傷つけたり、または人を陥れたりしても自己の優勢な事は証明できる訳であるが、これらはむしろ殺したり、傷つけたり、陥れたりするのが目的のときによるべき手段で、自己の優勢なる事はこの手段を遂行した後に必然の結果として起こる現象に過ぎん。だから、一方には自分の勢力が示したくって、しかもそんなに人に害を与えたくないという場合には、からかうのが一番お恰好である。多少人を傷つけなければ自己のえらい事は事実の上に証拠だてられない。事実になって出て来ないと、頭のうちで安心していても、存外快楽のうすいものである。人間は自己を恃(たの)む(たよりになるものとしてあてにする。力としてたよる。信じる)ものである。否、恃み難い場合でも恃みたいものである。それだから自己はこれだけ恃めるものだ、これなら安心だという事を、人に対して実地に応用してみないと気がすまない。しかも、理屈のわからない俗物や、あまり自己が恃みになりそうもなくて落ちつきのない者は、あらゆる機会を利用して、この証券を握ろうとする。柔術使いが時々人を投げてみたくなるのと同じ事である。柔術の怪しいものは、どうか自分より弱い奴にただの一ぺんでいいから出逢ってみたい、素人でも構わないから投げてみたいと、しごく危険な了見を抱いて町内を歩くのもこれがためである。


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《第八》 「からかう」という事5



 その他にも理由はいろいろあるが、あまり長くなるから略する事にいたす。聞きたければ鰹節(かつぶし)の一折りも持って習いにくるがいい、いつでも教えてやる。


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《第八》 「からかう」という事6


画/吉崎正巳

 以上に説くところを参考して推論してみると、吾輩の考えでは、奥山の猿と学校の教師が、からかうには一番手頃である。学校の教師をもって奥山の猿に比較してはもったいない。――猿に対してもったいないのではない、教師に対してもったいないのである。しかしよく似ているからしかたがない、ご承知の通り奥山の猿は鎖で繋がれている。いくら歯をむき出しても、きゃっきゃっ騒いでも引っかかれる気遣いはない。教師は鎖で繋がれておらない代わりに月給で縛られている。いくらからかったって大丈夫、辞職して生徒をぶんなぐる事はない。辞職をする勇気のあるようなものなら最初から教師などをして生徒のお守りは勤めないはずである。
 主人は教師である。落雲館の教師ではないが、やはり教師に相違ない。からかうにはしごく適当で、しごく安直で、しごく無事な男である。
 落雲館の生徒は少年である。からかう事は自己の鼻を高くするゆえんで、教育の功果として至当に要求してしかるべき権利とまで心得ている。のみならず、からかいでもしなければ、活気に満ちた五体と頭脳を、いかに使用してしかるべきか、十分の休暇中、持てあまして困っている連中である。
 これらの条件が備われば主人はおのずからからかわれ、生徒はおのずからからかう。誰から言わしてもちっとも無理のないところである。それを怒る主人は野暮(やぼ)の極、間抜けの骨頂でしょう。これから落雲館の生徒がいかに主人にからかったか、これに対して主人がいかに野暮を極めたかを逐一書いてご覧に入れる。


「奥山の猿」
「奥山」は、浅草観音堂の西北、公園第五区のあたりをさして呼んだ江戸中期以来の俗称。当時、ここの花屋敷に動物園があった。


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《第八》 四つ目垣



 諸君は四つ目垣とはいかなるものであるかご承知であろう。風通しのいい、簡便な垣である。吾輩などは目の間から自由自在に往来する事ができる。こしらえたって、こしらえなくたって同じ事だ。しかし、落雲館の校長は猫のために四つ目垣を作ったのではない。自分が養成する君子がくぐられんために、わざわざ職人を入れて結いめぐらせたのである。なるほどいくら風通しがよくできていても、人間にはくぐれそうにない。この竹をもって組み合わせたる四寸角(約13cm角)の穴をぬける事は、清国(しんこく)の奇術師・張世尊(ちょうせいそん)その人といえどもむずかしい。だから人間に対しては十分、垣の功能をつくしているに相違ない。主人がそのできあがったのを見て、これならよかろうと喜んだのも無理はない。


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《第八》 四つ目垣2



 しかし主人の論理にはおおいなる穴がある。この垣よりもおおいなる穴がある。呑舟(どんしゅう)の魚(「大物」の意)をももらすべき大穴がある。
 彼は『垣は越ゆべきものにあらず』との仮定から出立している。いやしくも学校の生徒たる以上は、いかに粗末の垣でも、垣という名がついて、分界線の区域さえ判然すれば、決して乱入される気遣いはないと仮定したのである。
 次に彼はその仮定をしばらく打ち崩して、よし乱入する者があっても大丈夫と論断したのである。四つ目垣の穴をくぐり得る事は、いかなる小僧といえどもとうていできる気遣いはないから乱入のおそれは決してないと速定してしまったのである。


「呑舟の魚」
【荘子】「庚桑楚」から
舟をまるのみにするほどの大きな魚。
転じて、大人物。大物。←この場合、獲物の「大物」。


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《第八》 君子の軍略


画/司 修

 なるほど彼らが猫でない限りはこの四角の目をぬけてくる事はしまい。したくてもできまいが、乗り越える事、飛び越える事はなんの事もない。かえって運動になっておもしろいくらいである。


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《第八》 君子の軍略2


画/下高原千歳

 垣のできた翌日から、垣のできぬ前と同様に彼らは北側の空き地へぽかりぽかりと飛びこむ。ただし座敷の正面までは深入りをしない。もし追いかけられたら逃げるのに少々ひまがいるから、あらかじめ逃げる時間を勘定に入れて、捕らえらるる危険のない所で遊弋(ゆうよく/あちこち動き回ること)をしている。彼らが何をしているか東の離れにいる主人にはむろん目に入らない。北側の空き地に彼らが遊弋している状態は、木戸をあけて反対の方角から鉤(かぎ)の手に曲がって見るか、または後架(こうか/便所)の窓から垣根越しにながめるよりほかにしかたがない。
 窓からながめる時はどこに何がいるか一目明瞭に見渡す事ができるが、よしや敵を幾人(いくたり)見出したからといって捕らえる訳にはいかぬ。ただ窓の格子の中から叱りつけるばかりである。
 もし木戸から迂回して敵地を突こうとすれば、足音を聞きつけてぽかりぽかりとつらまる前に向こう側へ下りてしまう。オットセイがひなたぼっこをしているところへ密猟船が向かったようなものだ。
 主人はむろん後架で張り番をしている訳ではない。といって木戸を開いて、音がしたらすぐ飛び出す用意もない。もしそんな事をやる日には教師を辞職して、その方専門にならなければ追っつかない。


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