2006.12.28 Thursday
《第三》 東風の高輪事件2
画/丹羽和子
「ドイツ人が大鷹源吾の蒔絵(まきえ)の印籠(いんろう)を見て、『これを買いたいが売ってくれるだろうか』と聞くんだそうだ。その時の東風の返事がおもしろいじゃないか。『日本人は清廉の君子ばかりだからとうてい駄目だ』と言ったんだとさ。その辺はだいぶ景気がよかったが、それからドイツ人の方では恰好な通訳を得たつもりでしきりに聞くそうだ」
「何を?」
「それがさ、なんだかわかるくらいなら心配はないんだが、早口でむやみに問い掛けるものだから少しも要領を得ないのさ。たまにわかるかと思うと鳶口(とびぐち/樫(かし)の棒の先に鳶(トビ)のクチバシに似た形の鉄製の鉤(かぎ)をつけたもの。火事のときに家屋を壊したり、材木運搬の際にひっかけたりするのに用いる)や掛矢(かけや/樫(かし)などの堅木で作った大きな槌(つち)。くい打ちや扉を打ち破るのに用いる)の事を聞かれる。西洋の鳶口や掛矢は、先生なんと翻訳していいのか習った事が無いんだから弱らあね」
「もっともだ」と主人は教師の身の上に引き比べて同情を表する。
「ところへ、ひま人が物珍しそうにぽつぽつ集まってくる。しまいには東風とドイツ人を四方から取り巻いて見物する。東風は顔を赤くしてへどもどする。初めの勢いに引きかえて先生大弱りの体(てい)さ」
「結局どうなったんだい」
「しまいに東風が我慢できなくなったとみえてさいならと日本語で言ってぐんぐん帰って来たそうだ、『さいならは少し変だ。君の国ではさよならをさいならと言うか』って聞いてみたら、『なに、やっぱりさよならですが相手が西洋人だから調和を計るために、さいならにしたんだ』って。東風子は苦しい時でも調和を忘れない男だと感心した」
「さいならはいいが西洋人はどうした」
「西洋人はあっけに取られて茫然と見ていたそうだ。ハハハハ。おもしろいじゃないか」
「別段おもしろい事もないようだ。それをわざわざ知らせに来る君の方がよっぽどおもしろいぜ」と主人は巻煙草の灰を火桶の中へはたき落す。折から格子戸のベルが飛び上がるほど鳴って「ごめんなさい」と鋭い女の声がする。迷亭と主人は思わず顔を見合わせて沈黙する。