「吾輩は猫である」

  挿画でつづる漱石の猫 I AM A CAT illustrated
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《第三》 東風の高輪事件2


画/丹羽和子

「ドイツ人が大鷹源吾の蒔絵(まきえ)の印籠(いんろう)を見て、『これを買いたいが売ってくれるだろうか』と聞くんだそうだ。その時の東風の返事がおもしろいじゃないか。『日本人は清廉の君子ばかりだからとうてい駄目だ』と言ったんだとさ。その辺はだいぶ景気がよかったが、それからドイツ人の方では恰好な通訳を得たつもりでしきりに聞くそうだ」
「何を?」
「それがさ、なんだかわかるくらいなら心配はないんだが、早口でむやみに問い掛けるものだから少しも要領を得ないのさ。たまにわかるかと思うと鳶口(とびぐち/樫(かし)の棒の先に鳶(トビ)のクチバシに似た形の鉄製の鉤(かぎ)をつけたもの。火事のときに家屋を壊したり、材木運搬の際にひっかけたりするのに用いる)や掛矢(かけや/樫(かし)などの堅木で作った大きな槌(つち)。くい打ちや扉を打ち破るのに用いる)の事を聞かれる。西洋の鳶口や掛矢は、先生なんと翻訳していいのか習った事が無いんだから弱らあね」
「もっともだ」と主人は教師の身の上に引き比べて同情を表する。
「ところへ、ひま人が物珍しそうにぽつぽつ集まってくる。しまいには東風とドイツ人を四方から取り巻いて見物する。東風は顔を赤くしてへどもどする。初めの勢いに引きかえて先生大弱りの体(てい)さ」
「結局どうなったんだい」
「しまいに東風が我慢できなくなったとみえてさいならと日本語で言ってぐんぐん帰って来たそうだ、『さいならは少し変だ。君の国ではならならと言うか』って聞いてみたら、『なに、やっぱりさよならですが相手が西洋人だから調和を計るために、さいならにしたんだ』って。東風子は苦しい時でも調和を忘れない男だと感心した」
「さいならはいいが西洋人はどうした」
「西洋人はあっけに取られて茫然と見ていたそうだ。ハハハハ。おもしろいじゃないか」
「別段おもしろい事もないようだ。それをわざわざ知らせに来る君の方がよっぽどおもしろいぜ」と主人は巻煙草の灰を火桶の中へはたき落す。折から格子戸のベルが飛び上がるほど鳴って「ごめんなさい」と鋭い女の声がする。迷亭と主人は思わず顔を見合わせて沈黙する。



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《第三》 金田夫人来宅


画/近藤浩一路

 主人のうちへ女客は稀有(けう)だなと見ていると、かの鋭い声の所有主は縮緬(ちりめん)の二枚重ねを畳へすりつけながら入って来る。年は四十の上を少しこしたくらいだろう。抜けあがった生え際から前髪が堤防工事のように高くそびえて、少なくとも顔の長さの二分の一だけ天に向かってせり出している。
 目が切り通し(湯島の切り通し)の坂くらいな勾配で、直線につるし上げられて左右に対立する。直線とは鯨より細いという形容である。


「鯨より細い」
「目の細きものをいふ。鯨の目細し」『東京語辞典』(大正6年刊)より。






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《第三》 鼻子


画/下高原千歳

 鼻だけはむやみに大きい。人の鼻を盗んで来て顔の真ん中へ据えつけたように見える。三坪ほどの小庭へ招魂社(靖国神社)の石灯籠を移した時のごとく、ひとりで幅を利かしているがなんとなく落ちつかない。その鼻はいわゆる鉤鼻(かぎばな)で、ひとたびは精一杯高くなってみたが、これではあんまりだと中途から謙遜して、先の方へいくと初めの勢いに似ず垂れかかって下にあるくちびるをのぞきこんでいる。かく著しい鼻だから、この女が物を言うときは、口が物を言うと言わんより、鼻が口をきいているとしか思われない。吾輩はこの偉大なる鼻に敬意を表するため、以来はこの女を称して鼻子(はなこ)鼻子と呼ぶつもりである。鼻子はまず初対面の挨拶を終わって「どうも結構なお住まいですこと」と座敷中を睨(ね)めまわす。
 主人は「嘘をつけ」と腹の中で言ったまま、ぷかぷか煙草をふかす。
 迷亭は天井を見ながら「君、ありゃ雨漏りか、板の木目か。妙な模様が出ているぜ」と暗に主人を促す。「むろん雨の漏りさ」と主人が答えると「結構だなあ」と迷亭がすまして言う。
 鼻子は社交を知らぬ人達だと腹の中で憤(いきどお)る。しばらくは三人、鼎坐(ていざ/三人が向かい合ってすわること)のまま無言である。
「ちとうかがいたい事があって、参ったんですが」と鼻子は再び話の口を切る。
「はあ」と主人が極めて冷淡に受ける。
 これではならぬと鼻子は、「実は私はついご近所で――あの向こう横丁の角屋敷なんですが」
「あの大きな西洋館の倉のあるうちですか。道理であすこには金田という表札が出ていますな」と主人はようやく金田の西洋館と金田の倉を認識したようだが、金田夫人に対する尊敬の度合いは前と同様である。
「本来なら宿(夫)が出ましてお話をうかがうんですが、会社の方が大変忙しいもんですから」と今度は少し利いたろうという目つきをする。
 主人はいっこう動じない。鼻子のさっきからの言葉遣いが初対面の女としてはあまりぞんざい過ぎるのですでに不平なのである。
「会社でも一つじゃ無いんです、二つも三つも兼ねているんです。それにどの会社でも重役なんで――多分ご存知でしょうが」これでも恐れいらぬかという顔つきをする。
 元来ここの主人は博士とか大学教授とかいうと非常に恐縮する男であるが、妙な事には実業家に対する尊敬の度は極めて低い。実業家よりも中学校の先生の方がえらいと信じている。よし、信じておらんでも、融通の利かぬ性質として、とうてい実業家、金満家の恩顧をこうむる事はおぼつかないと諦めている。いくら先方が勢力家でも、財産家でも、自分が世話になる見こみのないと思い切った人の利害には極めて無頓着である。それだから学者社会を除いて他の方面の事には極めて迂濶(うかつ)で、ことに実業界などでは、どこに誰が何をしているかいっこう知らん。知っても尊敬畏服の念はちっとも起こらんのである。
 鼻子の方では天(あめ)が下の一隅にこんな変人がやはり日光に照らされて生活していようとは夢にも知らない。今まで世の中の人間にもだいぶ接してみたが、金田の妻(さい)ですと名乗って、急に取り扱いの変わらない場合はない。どこの会へ出ても、どんな身分の高い人の前でも、立派に金田夫人で通していかれる。いわんや、こんなくすぶり返った老書生においてをやで、『私のうちは向こう横丁の角屋敷です』とさえ言えば職業などは聞かぬ先から驚くだろうと予期していたのである。



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《第三》 牧山男爵


画/近藤浩一路

「金田って人を知ってるか」と主人は無造作に迷亭に聞く。
「知ってるとも。金田さんは僕の伯父の友達だ。この間なんざ園遊会へおいでになった」と迷亭は真面目な返事をする。
「へえ。君の伯父さんてえな誰だい」
「牧山男爵さ」と迷亭はいよいよ真面目である。
 主人が何か言おうとして言わぬ先に、鼻子は急に向き直って迷亭の方を見る。迷亭は大島紬(おおしまつむぎ)に古渡更紗(こわたりさらさ)かなにか重ねてすましている。
「おや、あなたが牧山様の――なんでいらっしゃいますか。ちっとも存じませんで、はなはだ失礼をいたしました。牧山様には始終お世話になると、宿で毎々お噂をいたしております」と急に丁寧な言葉使いをして、おまけにお辞儀までする。
 迷亭は「へええ。なに、ハハハハ」と笑っている。
 主人はあっけに取られて無言で二人を見ている。
「たしか娘の縁辺の事につきましてもいろいろ牧山さまへご心配を願いましたそうで……」
「へえー、そうですか」と、こればかりは迷亭にもちと唐突過ぎたとみえて、ちょっとたまげたような声を出す。


「古渡更紗」
室町時代またはそれ以前に外国から伝来した更紗。
「更紗」(さらさ)はポルトガル語。人物や鳥獣などの模様をプリントした綿布・絹布。



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《第三》 煙管の軍配団扇


画/村上豊

「実は方々からくれくれと申しこみはございますが、こちらの身分もあるものでございますから、めったなとこへも片づけられませんので……」
「ごもっともで」と迷亭はようやく安心する。
「それについて、あなたにうかがおうと思って上がったんですがね」と鼻子は主人の方を見て急にぞんざいな言葉に返る。「あなたの所へ水島寒月という男がたびたび上がるそうですが、あの人は全体どんな風な人でしょう」
「寒月の事を聞いてなんにするんです」と主人は苦々しく言う。
「やはりご令嬢のご婚儀上の関係で、寒月君の性行の一部分をご承知になりたいという訳でしょう」と迷亭が機転を利かす。
「それがうかがえれば大変都合がよろしいのでございますが……」
「それじゃ、ご令嬢を寒月におやりになりたいとおっしゃるんで」
「やりたいなんてえんじゃ無いんです」と鼻子は急に主人を参らせる。「ほかにもだんだん口が有るんですから、無理にもらっていただかないだって困りゃしません」
「それじゃ寒月の事なんか聞かんでもいいでしょう」と主人も躍起となる。
「しかしお隠しなさる理由もないでしょう」と鼻子も少々喧嘩腰になる。
 迷亭は双方の間に座って、銀煙管(ぎんギセル)を軍配団扇(ぐんばいうちわ)のように持って、心のうちで『はっけよいや よいや』と怒鳴っている。



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《第三》 鼻子の不意打ち


画/近藤浩一路

「じゃあ寒月の方で、ぜひもらいたいとでも言ったのですか」と主人が正面から鉄砲(相撲の一手。両手でバシバシ突っぱること)をくらわせる。
「もらいたいと言ったんじゃないんですけれども……」
「もらいたいだろうと思っていらっしゃるんですか」と主人は、この婦人、鉄砲に限ると覚ったらしい。
「話はそんなに運んでるんじゃありませんが――寒月さんだってまんざら嬉しくない事もないでしょう」と土俵際で持ち直す。
「寒月がなにかそのご令嬢に恋着(れんちゃく)したというような事でもありますか」あるなら言ってみろと言う剣幕で主人は反り返る。
「まあ、そんな見当でしょうね」今度は主人の鉄砲が少しも功を奏しない。今までおもしろげに行司気取りで見物していた迷亭も、鼻子の一言に好奇心を挑発されたものとみえて、煙管(キセル)を置いて前へ乗り出す。「寒月がお嬢さんにつけ文(ぶみ)でもしたんですか。こりゃ愉快だ。新年になって逸話がまた一つふえて話の好材料になる」と一人で喜んでいる。
「つけ文じゃないんです。もっと激しいんでさあ。お二人ともご承知じゃありませんか」と鼻子はおつにからまってくる。
「君、知ってるか」と主人は狐つきのような顔をして迷亭に聞く。迷亭もばかげた調子で「僕は知らん。知っていりゃ君だ」と、つまらんところで謙遜する。
「いえ、おふたりともご存じの事ですよ」と鼻子だけ大得意である。
「へえー」と、ご両人は一度に感じいる。
「お忘れになったら私からお話をしましょう。去年の暮れ、向島の阿部さんのお屋敷で演奏会があって寒月さんも出掛けたじゃありませんか。その晩、帰りに吾妻橋でなにかあったでしょう――詳しい事は言いますまい、当人のご迷惑になるかもしれませんから――あれだけの証拠がありゃ十分だと思いますが、どんなものでしょう」とダイヤモンド入りの指輪のはまった指を膝の上へならべて、つんと居ずまいをただす。偉大なる鼻がますます異彩を放って、迷亭も主人も有れども無きがごとき有様である。
 主人はむろん、さすがの迷亭もこの不意うちには胆を抜かれたものとみえて、しばらくは呆然として瘧(おこり/間欠的に発熱し、悪感(おかん)や震えを発する病気。主にマラリアの一種、三日熱を指した)の落ちた病人のように座っていたが、驚愕の箍(たが)がゆるんでだんだん持ち前の本態に復するとともに、滑稽という感じが一度にこみあげてくる。ふたりは申し合わせたごとく「ハハハハハ」と笑い崩れる。鼻子ばかりは少し当てがはずれて、この際笑うのははなはだ失礼だと両人をにらみつける。
「あれがお嬢さんですか、なるほどこりゃいい。おっしゃる通りだ。ねえ、苦沙弥君。まったく寒月はお嬢さんを恋(おも)ってるに相違ないね……もう隠したってしようがないから白状しようじゃないか」
「ウフン」と主人は言ったままである。
「本当にお隠しなさってもいけませんよ、ちゃんと種は上がってるんですからね」と鼻子はまた得意になる。



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《第三》 鼻子の情報収集


画/近藤浩一路

「こうなりゃしかたがない。なんでも寒月君に関する事実はご参考のために陳述するさ。おい、苦沙弥君。君が主人だのに、そうにやにや笑っていては埒(らち)があかんじゃないか。実に秘密というものは恐ろしいものだねえ。いくら隠してもどこからか露見するからな。――しかし不思議と言えば不思議ですねえ、金田の奥さん。どうしてこの秘密をご探知になったんです。実に驚きますな」と迷亭は一人でしゃべる。
「私の方だって、ぬかりはありませんやね」と鼻子はしたり顔をする。
「あんまり、ぬかりが無さ過ぎるようですぜ。いったい誰にお聞きになったんです」
「このすぐ裏にいる車屋のかみさんからです」



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《第三》 悪口の交換


画/近藤浩一路

「あの黒猫のいる車屋ですか」と主人は目を丸くする。
「ええ。寒月さんの事じゃ、よっぽど使いましたよ。寒月さんが、ここへ来るたびにどんな話をするかと思って、車屋のかみさんを頼んでいちいち知らせてもらうんです」
「そりゃ、ひどい」と主人は大きな声を出す。
「なあに、あなたがなにをなさろうとおっしゃろうと、それに構ってるんじゃないんです。寒月さんの事だけですよ」
「寒月の事だって、誰の事だって――全体あの車屋のかみさんは気に食わん奴だ」と主人は一人怒り出す。
「しかしあなたの垣根の外へ来て立っているのは向こうの勝手じゃありませんか。話が聞こえて悪けりゃもっと小さい声でなさるか、もっと大きなうちへお入んなさるがいいでしょう」と鼻子は少しも赤面した様子がない。「車屋ばかりじゃありません。新道の二絃琴の師匠からもだいぶいろいろな事を聞いています」
「寒月の事をですか」
「寒月さんばかりの事じゃありません」と少し凄い事を言う。
 主人は恐れいるかと思うと「あの師匠はいやに上品ぶって自分だけ人間らしい顔をしている馬鹿野郎です」
「はばかりさま(おあいにくさま)。女ですよ。野郎はおかどちがいです」と鼻子の言葉使いはますますお里をあらわしてくる。これではまるで喧嘩をしに来たようなものであるが、そこへいくと迷亭はやはり迷亭で、この談判をおもしろそうに聞いている。鉄枴仙人(てっかいせんにん)が軍鶏(しゃも)の蹴合い(けあい)を見るような顔をして平気で聞いている。


「鉄枴仙人」
中国随代の仙人・李洪水。餓死した乞食に魂を入れたため、ちんばでボロを着ている。



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《第三》 気を引かれた寒月


画/近藤浩一路

 悪口の交換ではとうてい鼻子の敵でないと自覚した主人は、しばらく沈黙を守るのやむをえざるに至らしめられていたが、ようやく思いついたか「あなたは寒月の方からお嬢さんに恋着したようにばかりおっしゃるが、私の聞いたんじゃ少し違いますぜ。ねえ、迷亭君」と迷亭の救いを求める。
「うん。あの時の話じゃお嬢さんの方が、はじめ病気になって――なんだかうわごとを言ったように聞いたね」
「なに、そんな事はありません」と金田夫人は判然たる直線流の言葉使いをする。
「それでも寒月はたしかに○○博士の夫人から聞いたと言っていましたぜ」
「それがこっちの手なんでさあ、○○博士の奥さんを頼んで寒月さんの気を引いてみたんでさあね」
「○○の奥さんは、それを承知で引き受けたんですか」
「ええ。引き受けてもらうたって、ただじゃできませんやね。それやこれやでいろいろ物を使っているんですから」



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《第三》 団栗のスタビリチー


画/丹羽和子

「ぜひ寒月君の事を根堀り葉堀りお聞きにならなくっちゃお帰りにならないという決心ですかね」と迷亭も少し気持ちを悪くしたとみえて、いつになく手ざわりのあらい言葉を使う。
「いいや、君。話したって損のいく事じゃなし、話そうじゃないか苦沙弥君――奥さん、私でも苦沙弥でも寒月君に関する事実でさしつかえのない事は、みんな話しますからね。――そう、順を立ててだんだん聞いて下さると都合がいいですね」
 鼻子はようやく納得して、そろそろと質問を呈出する。一時荒立てた言葉使いも迷亭に対してはまたもとのごとく丁寧になる。「寒月さんも理学士だそうですが、全体どんな事を専門にしているのでございます」
「大学院では『地球の磁気の研究』をやっています」と主人が真面目に答える。
 不幸にしてその意味が鼻子にはわからんものだから「へえー」とは言ったがけげんな顔をしている。「それを勉強すると博士になれましょうか」と聞く。
「博士にならなければやれないとおっしゃるんですか」と主人は不愉快そうに尋ねる。
「ええ。ただの学士じゃね、いくらでもありますからね」と鼻子は平気で答える。
 主人は迷亭を見ていよいよいやな顔をする。
「博士になるかならんかは僕らも保証する事ができんから、ほかの事を聞いていただく事にしよう」と迷亭もあまりいい機嫌ではない。
「近頃でもその地球の――なにかを勉強しているんでございましょうか」
「二、三日前は『首くくりの力学』という研究の結果を理学協会で演説しました」と主人はなんの気もつかずに言う。
「おや、いやだ。『首くくり』だなんて、よっぽど変人ですねえ。そんな『首くくり』やなにかやってたんじゃ、とても博士にはなれますまいね」
「本人が首をくくっちゃあむずかしいですが、『首くくりの力学』ならなれないとも限らんです」
「そうでしょうか」と今度は主人の方を見て顔色をうかがう。悲しい事に力学という意味がわからんので落ちつきかねている。しかしこれしきの事を尋ねては金田夫人の面目に関すると思ってか、ただ相手の顔色で八卦(はっけ)を立てて見る。主人の顔は渋い。「そのほかになにか、わかりやすいものを勉強しておりますまいか」
「そうですな、せんだって『ドングリのスタビリチー(stability/安定度)を論じて、あわせて天体の運行に及ぶ』という論文を書いた事があります」
「ドングリなんぞでも大学校で勉強するものでしょうか」
「さあ、僕も素人だからよくわからんが、なにしろ寒月君がやるくらいなんだから、研究する価値があるとみえますな」と迷亭はすまして冷やかす。


※第三章が掲載された「ホトトギス」に、寒月のモデルとされる寺田寅彦の「団栗」も掲載されている。楽屋オチといったところか。(J・KOYAMA)



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